聖書のお話


礼拝メッセージより 〈読むみ言葉〉をどうぞ

               *折々の写真と共に


12月27日 降誕節第一主日 講壇献花
12月27日 降誕節第一主日 講壇献花

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/12/27

    マタイによる福音書 1章18節~25節

      「 インマヌエルおじさん ヨセフ 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

イエスの父となるナザレのヨセフとは、一体どのような人物だったのでしょう。

 

ヨセフは婚約者であるマリアから驚きの知らせを受けます。当時の婚約は結婚と同じ意味があったとされますが、自分には身に覚えのないことであるのに、マリアが身ごもっていることを聞くことになったのです。「聖霊」によって、ということも含めて、直ぐに受け入れられません。しかし、マリアが自分に嘘をついているとはとても思えなかったはずです。

 

**************

 

マタイによる福音書はヨセフについて「夫ヨセフは正しい人であったので」と伝えます。ここでの「正しさ」とは「律法」を忠実に守ることにかけては、という意味があります。ある英語の聖書では「原理原則の人」(man of principle)という表現を使います。

 

このヨセフが考えに考えた末に取ろうとした決断が「縁を切る」という方法でした。マリアが「表ざたになること」「さらし者になること」を避けようしたのです。

 

しかし、私にはどうしても腑に落ちません。マリアはやがて子どもを産んだ時、「この子の父親はどこの誰なのか」ということが必ず問題になるはずだからです。

 

**************

 

そんなヨセフが深い眠りの中にある時に、夢に神さまからのみ使いが現れて告げました。天使が伝えたのは生まれ来る子を「イエスと名付けること」を示すと同時に、「インマヌエル=神われらと共に」という使命を持つ者としてその子は与えられるというものでした。

 

律法に忠実で聖書を熟知していた真面目なヨセフにとって、「インマヌエル」は金太郎飴のように、ヤコブの時代から一貫して約束されている重要な事柄でした。

 

この言葉をみ使いから受けた時に、寡黙なヨセフは生涯を「インマヌエル」に賭けて生きて行くことを決心したのです。

 

ヨセフが発した言葉は、聖書にはひと言も記録されていませんが、「インマヌエル」は、マリアが「お言葉どおりこの身になりますように」を大切に生き抜いたのと同様に、彼のその後の人生を支え続ける言葉となったはずです。

 

そしてこの「インマヌエル」は、私たちを支えてくれる約束の言葉として与えられているのです。end

 

 


2020年12月20日 講壇の献花
2020年12月20日 講壇の献花

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/12/20

      ルカによる福音書 1章25節~40節

        「 ナザレのマリアによって 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

私は、ヤン・ピエンコフスキーという方が描いた『クリスマス』という現代の絵本の中のマリアが大好きです。

 

ヨセフと結婚する前のマリアが庭で洗濯物を干している場面は、旧約聖書に一度もその名が出て来たことのない「ナザレ」という村の平凡な日常を伝えてくれるからです。

 

そこには鉄砲ゆりが見えます。ニワトリの姿もあります。神さまが救いのみ子イエス・キリストをこの世に送られるために選ばれたのはごく平凡な娘だったのです。

 

み使いが去った後、マリアはエリサベトおばさんを訪ねます。そこでマリアは、自分がどのような娘であるのかについて、「身分の低い、この主のはしため」と歌います。それがマリアの自己認識=セルフイメージでした。

 

神さまの愛がどこに向かっているのかが実によく分かる言葉です。

 

**************

 

マリアは私たちなのです。榎本保郎先生という牧師は『ちいろば』という自叙伝の中で、「お前のよう者が牧師になるとは、キリストも損をしたもんじゃのう」と言われたと記しておられます。

 

私はこの言葉を読み直してはいつも励まされています。

 

私たちは、「まさか、あなたがクリスチャンだとはなぁ」と驚かれるような、ちっぽけな存在であることを認めざるを得ないからです。ところが、これこそが神さまの選びなのです。

 

やがてマリアは、生後8日目のイエスを夫ヨセフと共に連れてエルサレム神殿に出掛けます。

 

そこでマリアはシメオンという老人が幼子イエスを腕に抱きながら口にする言葉を聞くのです。それは「あなた自身も剣で貫かれる」というものでした。

 

これは、イエスの十字架の死を預言する言葉です。これもまた私たちに向けられた言葉であることを心に刻みましょう。クリスマスの喜びの中に、私たちは十字架の救いを必要とする者であることも告げられているからです。

 

**************

 

マリアはみ使いからのお告げを受けたときに、最終的に「お言葉どおりこの身になりますように」と告白します。

 

これはそのとき限りの言葉ではありません。

 

我々もまた、「お言葉どおりこの身になりますように」と告白し続ける信仰を深めたい、と願うのです。end 

 

   


2020年12月6日  アドヴェント第2主日 君江さんの献花
2020年12月6日 アドヴェント第2主日 君江さんの献花

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/12/06

        出エジプト記 9章1節~35節

        「 かたくなで 頑迷な人よ 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

今年も救いのみ子を待ち望むアドヴェントを迎えています。この期節に大切にしたいことは悔い改めです。なぜなら、自分の内側に何の変化もないところには、救い主が宿ることはないからです。

 

み言葉は私たちの姿を映し出す鏡、と言われることがあります。出エジプト記の9章に秘められている福音とはどのようなものか。期待をもって読みたいと願うのです。

 

**************

 

ファラオに仕える魔術師たちが、「これは、神のみ業でございます」というような災いが直前にも続いていました。ファラオはエジプトでは神に等しい存在です。そんな王が、血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災いが続いた時に、「私のためにも祈ってくれ」とモーセにすがりつきます。

 

しかし、目の前の災いが過ぎ去って行くと、舌の根も乾かぬうちにファラオは態度を一変させます。その姿を聖書は「かたくな」と「頑迷」という言葉で表現します。「本当に馬鹿な王だ」と、私たちは思うのです。

 

9章に入っても、「頑迷」で「かたくな」なファラオが続きます。疫病の災い、腫れ物の災いが続くと、ファラオは恐れを抱き弱気になります。そして、イスラエルの民が身を寄せていたゴシェン地方以外に襲いかかった、「雷とひょうと稲妻の災い」は、ファラオが支配するエジプトに壊滅的な被害をもたらすのです。

 

「エジプトが滅びてもよいのですか、どうか、目をお覚まし下さい」とファラオの側近たちが進言する程でした。

 

**************

 

ファラオは、私たちと無縁な人ではありません。ファラオの「頑迷」「かたくな」が聖書に描かれ続けるのは、今を生きる私たちが正にそのような人間だからです。

 

そんな私たちのことを神さまは打ち砕こうとされています。キリスト者が旧約聖書を読む時、そこにはいつも、私たちの罪のために十字架の上で裁きを受け、砕かれた主イエスの姿を見いだすことが重要です。聖書の神に一貫するのは、「破壊」の後に「創造」のみ業が備えられているという点です。

 

出エジプト記9章にも、主の裁きと共に、新しい人・新しい世へと創造されて行くための、一筋の確かな道が見えます。end

 

 


2020年11月29日 教会花壇のストック
2020年11月29日 教会花壇のストック

◇先週の説教より◇  ☆2020/11/29

        使徒言行録 17章16節~34節

  「  うまく行かない時にこそ

          アテネにて 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

パウロは、ギリシアの「アテネ」にやって来ます。

 

彼の目にはパルテノン神殿が見えたはずです。当時のアテネは、パウロの時代よりもさらに500年ほど前の人物であるソクラテスやプラトンによって知られる「哲学の町」でした。

 

しかし、パウロが聞いた哲学の論議はじつに空しく、町の至るところに、中身のない偶像神があるのが目に入ります。ついに、憤りを押さえられなくなったパウロは、「アレオパゴスの丘」で語り出したのです。

 

**************

 

その説教はアテネの人々の想像を遥かに超えていました。天地創造の神は、「人の手によって作り出される、金や銀や石による像とは全く異なるものであること」を説き明かすところから始まったからです。

 

そして、主イエスを通して示される神は、決して遠くに居られるのではなく、探し求める者に必ず与えられることを明確に告げるものでした

 

。これは、今年もクリスマスに備える時を迎えている私たちの文脈に重ねるならば、「インマヌエル=神われらと共に」のお方こそが、救いを届けて下さるお方である、ということに他なりません。

 

けれども、パウロの説教がキリスト教の真髄である〈復活〉にまで及んだ時、人々は「もう、お前さんの話は、二度と聞かなくてもいいよ」という意味の言葉を口にし、去って行きました。

 

**************

 

一般に、アテネでのパウロの伝道は失敗だったと言われます。

 

本当にそうでしょうか。私はそうは思わないのです。

 

「パウロについて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」とあります。

 

ここに私たちは慰めと励ましを見ます。数は少ないけれど、信じた人が与えられたからです。

 

主イエス・キリストが大切にされたのは、一人の人との出会いであり救いでした。パウロが語った言葉を通じて導かれた「ディオニシオたち」の存在は、パウロの喜びであり、その後の伝道の力となった人たちでした。

 

日頃の信仰生活の中で、弱さを覚えることが多い私たちですが、ここには確かな希望があります。細いけれど、一筋の道が見えるのです。end

 

 


11月22日 教会花壇のプリムラ
11月22日 教会花壇のプリムラ

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/11/22

      マタイによる福音書 3章1節~17節

          「 石ころを愛する神 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

洗礼者ヨハネはイエスさまの先駈けでした。父ザカリアは祭司でしたから、彼もエルサレム神殿で祭司として仕える道を選ぶのが本筋だったはずです。

 

けれどもヨハネが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫び始めた場所は「荒れ野」でした。そこにユダヤの全土から人々がやって来て、罪の告白をし洗礼を受けたのです。

 

驚くべきことに、洗礼を受ける人の中にイエスさまの姿がありました。神のみ子が洗礼を受ける必要があったのでしょうか。答えは「あった」ということになります。イエスさまは、その伝道の生涯のスタート地点からご自身が罪人の一人として歩み出すことを、ヨハネから洗礼を受けることを通じて明らかにされたのです。

 

**************

 

ヨハネの元にやって来た人の中に、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」おりました。私は彼らが、悔い改めの心をもっていたとは思いません。

 

当時の彼らは、エルサレム神殿やユダヤ各地の会堂で、律法を遵守する「義人」として認められていましたし彼らの誇りでした。

 

そんな彼らが、わざわざ荒れ野に何をしにヨハネの元にやって来たのか。

 

私は彼らが、「箔を付けに来た」のだと考えます。ヨハネから、「あなたたちのように立派な生き方をなさっていたら、何も、私から洗礼を受ける必要などありません」と言ってもらうことが願いだったのではないでしょうか。

 

だからこそ、ヨハネは「悔い改めにふさわしい身を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」という辛辣な警告を口にしたのです。

 

**************

 

ヨハネが語った、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことができる」という言葉は、福音の真理を示すものであり、ファリサイ派やサドカイ派の人たちに対する痛烈な皮肉でした。

 

神さまは、イエスがこの世から「見捨てられる石ころ」であるにも関わらず、「隅の親石」となさるお方です。私たちは、自分は「石ころに過ぎないという小ささ」の自覚と、主のみ前に率直に罪を告白することが求められます。それこそが、アドヴェントを目前にしている私たちに必要なことなのです。end

 

 


教会花壇のオキザリス  2020年11月15日
教会花壇のオキザリス  2020年11月15日

        ◇先週の説教より◇  ☆2020/11/15

      出エジプト記 7章25節~8章28節

        「 神さまもきっと大変です 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

神さまがエジプト王ファラオに下される〈10の災い〉が連続して起こり始めます。「蛙・ぶよ・あぶ」の災いです。

 

否、正確に言うならば災いはファラオに襲いかかるだけではありません。エジプト国内にはヘブライ人も居たことを心に刻んでおく必要があります。彼らはモーセとアロンへの感謝を抱くどころか、二人が姿を見せてから大変なことが起こり始めている、という不信を抱いていたことでしょう。10の災いの後に、エジプト脱出が始まるという約束が明らかにされていたわけではないからです。

 

一つひとつの災いの意味を考える以上に我々が心にとめたいこと。それは、モーセとアロンという二人のリーダーが、一体何のために10もの災いを起こされる神さまに用いられ、奮闘しなければならないのかという点です。そうでなければ、出エジプト記でこれからしばらく続く「災い」が単なる不気味な出来事で終わってしまいます。

 

実に、ファラオという存在は、私たち人間を自由にさせない空恐ろしい「罪」を象徴しているのです。10の連続する災いをもってして、神さまがそのようなファラオに臨まれるのには理由がありました。そのようにしてまで、人間を柵(しがらみ)の中に閉じこめてしまう「罪の力」との戦いを、神さまご自身がなさる必要があった。

 

人は自力でそこから逃げ出すことは出来ないからです。

 

私たちの暮らしの中には、変えることの出来ない過去の失敗や恥、人からの、あるいは自分自身によるレッテル貼りによって苦しむ現実があります。奴隷状態に置かれているエジプトからの脱出を自力でなすことが出来ない民のために、神さまは動き始められたのです。

 

これは私たちの罪からの解放・自由を意味しています。とりわけ、出エジプト記8章の「あぶ」の災いの場面では「贖う」という聖書全体を読む上での鍵となる語が出て来ることは重要です。これは「救い」を意味します。

 

ここに、イエス・キリストのお姿は見えないけれど、信仰によって見いだすのがクリスチャンです。主イエスこそが、全ての罪からの解放を与えて下さるお方だからです。end

 

 


2020年11月1日 教会花壇の〈アスター〉
2020年11月1日 教会花壇の〈アスター〉

◇先週の説教より◇  ☆2020/11/01

      マルコによる福音書 2章1節~12節

            「 愛ゆえの非常識 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

              

もしもイエスさまが、当時の人々の考える「ちゃんとした人」・「常識人」であったら、このカファルナウムでの出来事は起こりません。

 

国語辞典で「ちゃんと」を調べると「きちんとしていて規則通りであるさま。基準に照らして外れるところがないこと」となります。

 

ここでのイエスはどうか。ご自身が教えをなさっていた民家の屋根を引っ剥がしてまでして病人をつり下ろすことを容認するだけならばまだしも、とんでもない宣言をなさいました。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に〈子よ、あなたの罪は赦される〉と言われた」とあるのです。

 

常識ある律法学者たちは心の中でつぶやきました。「この男はなぜこんなことを口にするのか。神を冒涜(ぼうとく)する言葉だ。一体誰が罪を赦すことができると思っているのだ」と。

 

きょうのみ言葉を考える上で、マルコ福音書の冒頭「神の子イエス・キリストの福音の初め。」を読み直すことは意義深いことです。

 

福音書記者マルコは読者に対して、「イエスが〈キリスト〉であることをキチッと書き始めますから、あなた方もそのつもりで覚悟をもって読んでくださいね」と念押ししているのです。あらためて申し上げます。「キリスト」という言葉が肝心なのです。マルコ福音書はイエスが「キリスト=救い主」であることを明らかにしようとしているからです。

 

二つ目に大切なこと。それは、主イエスが宣教の第一声で、1章15節にある通り、「悔い改めて福音を信じる」ことを語られた点です。

 

イエスが求められる「悔い改め」は「反省」とは違います。生きて行く方向を変えて行くことであり、社会の常識、世間の考え方がどうであれ、主を信じ、主に従い続けることだからです。

 

マルコによる福音書は、その「小見出し」を見てもわかるように、1章では幾つかの「いやし」が連続しています。

 

しかし2章のカファルナウムでの中風の人の「いやし」の出来事は、「イエスがキリスト」であることを宣言する物語なのです。

 

そのみ言葉の前に、私たちは何度でも「悔い改める」ことが求められています。そこに、真理の道が見えているからです。end

 

 


2020年10月25日 教会花壇のケイトウ
2020年10月25日 教会花壇のケイトウ

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/10/25

    ヨハネによる福音書 11章1節~44節

          「 愛はなぜか待たせる 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

              

▼ラザロの復活の出来事はエルサレムまで直線距離で3㎞程のベタニア村で起こります。この時、イエスさまは、ヨルダン川の向う側の〈もう一つのベタニア村〉に危険を避けてお出でになっていました。

 

そこに、イエスさまが愛しておられるラザロ危篤の報が届くのです。いいえ、イエスさまは、ラザロの姉のマルタとマリアの二人のことも愛しておられました。

 

ところが、「弟を助けて下さい」という切なる願いを遣いの者から聴かれたにも関わらず、イエスさまは直ちに行動を起こされませんでした。結局、イエスさまが到着されたのは、ラザロが墓に葬られてから4日目のことでした。

 

果たして、イエスさまと向き合うことになる、マルタ・マリア・ラザロの3人は、どのような信仰者としてここに描かれているのでしょう。

 

**************

 

▼マルタは何事にも活発でマメな人でした。一所懸命に切り盛りする頑張り屋さんです。この場面でも彼女がイエスさまを迎えます。

 

マルタは言いました。「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、救い主であると私は信じております」と。マルタはしっかりとした言葉で信仰を告白した人なのです。イエスさまはこのようなマルタのことを大切に受けとめておられました。

 

**************

 

▼マリアはどうか。マリアは涙をもってイエスさまを迎えます。ただ、ひれ伏して泣くことしか出来ません、しかしマリアの涙はここでは大きな意味をもちます。

 

イエスさまの心を激しく震わせました。マリアの涙がきっかけで、聖書では珍しい描写ですが、イエスさまも涙を流されるのです。

 

さらに、しばらく時間が経ってからのことですが、マリアはイエスさまを再び家に迎えた際に、臆することなく高価な香油を主のために注ぎ切り、自身の大切な髪の毛で拭う、という仕方で信仰を告白したのです。

 

**************

 

では、ラザロはどうだったか。ラザロは終始一貫、ひと言も言葉を発しない人として身を置いています。彼は、おるだけの存在なのです。

 

しかし彼はそれによって証ししています。ここにも深い意味があります。

 

これもまた、主イエスの愛を受けるに相応しい信仰者の在りようなのです。end

 

 


2020年10月18日 会堂前のバラ
2020年10月18日 会堂前のバラ

        ◇先週の説教より◇  ☆2020/10/18

        使徒言行録 17章1節~15節

        「 テサロニケでのパウロ 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

使徒パウロがシラスらと共にはじめてテサロニケに滞在したのは西暦49年~50年頃のことです。テサロニケは現在でもギリシアではアテネに次ぐ大きな都市で、当時も港町として栄え、ローマとの位置関係からも交通の要衝であり、人々の出会いが生まれ交易も盛んでした。

 

テサロニケはパウロにとって大いに魅力を感じるところだったと思われます。数年後に記したテサロニケの信徒への第一の手紙から推測するならば、パウロにとってのテサロニケは、多くの苦労もあったことも分かりますが、同時に、その後のパウロを支えてくれる力になり、喜びになっていたのだなということも伺われるのです。「ヤソン」という人物が、テサロニケでの長期滞在の部屋を提供してくれていたことも使徒言行録17章から分かります。

 

ローマ帝国の植民都市だったフィリピと違って、自由な都市であったテサロニケには、離散のユダヤ人が多く暮らしており、ユダヤ教徒の会堂があったのです。

 

これまでの伝道でもそうですが、パウロはユダヤ人の会堂を安息日には訪れ、そこで「聖書」を説き明かしました。当時は福音書など存在していません。パウロは、わたしたちが旧約聖書と呼んでいる「聖書」を一所懸命にひもとき、イエスこそが救い主であるということを大胆に語りました。それを聴いた人たちは驚きと共に救いの喜びを感じたのです。

 

とりわけ、パウロの説教で説得力があったのは、「このメシアは私が伝えているイエスである」という言葉から推測できる事柄です。

 

私はこう思うのです。パウロは、自分がクリスチャンと呼ばれ始めていた人々を息を弾ませながら迫害していた罪深い人間であることを率直に語ったのではないか、と。イエスを苦しめる人間だったことを、パウロは、テサロニケで語ったのです。それを聴いた人たちは心打たれました。自分も洗礼を受けて、その道を生きて行きたい。そう願いました。み言葉が府に落ちたのです。

 

信仰の言葉とは実に不思議なものだと思います。私たちも私たちの信仰の言葉を大切にしたいと願います。そこには聖霊の力が働くからです。end

 

 


2020年10月4日(日) 教会の庭のコスモス
2020年10月4日(日) 教会の庭のコスモス

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/10/04

  出エジプト記 6章26節~7章24節

        「 モーセとアロンと教会と 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

モーセには3歳年上の兄アロンが与えられていました。

 

彼ら二人がファラオと向き合った時にとった行動で心に留めるべきことは、「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った」ということです。

 

神さまはファラオの前で杖を蛇に変える力を二人に与えられますが、ファラオも王の威信にかけて同じことを行って対抗します。

 

しかし、〈ファラオの杖〉はアロンの杖に「呑み込まれる」のです。この事実こそ、これから始まるファラオに下される〈10の災い〉が起こる前から、主は、ファラオの上に立つお方であることを示す象徴的な場面なのです。ファラオの心を主が「かたくな」にされます。それがずっと続くのですが、これは、神の創造のみ業を拒む人の姿です。ファラオの「かたくな」は私たちの姿でもあります。

 

**************

 

〈10の災い〉が次々に下される場面を、この通りのことが起こったと考える必要はありません。それ程までに激しいせめぎ合いが、この世の力を代表するファラオとの戦いで起こることを暗に告げているのです。

 

最初に起こる〈血の災い〉の舞台がナイル川であることにも大きな意味があります。ナイルを制する者はエジプトを制する。

 

神さまはアロンのもった杖でナイル川を打つとエジプト中の水という水が血に変えることにも、真の王である主の栄光が隠されています。一見、おどろおどろしい〈血の災い〉という事態も、モーセとアロンをお立てになった神の力が、創造の主としていかに大いなるものであるかを知らせるものなのです。

 

ファラオも対抗しますが、エジプトの民のために血を水に変えることなど出来ません。

 

**************

 

最後に心にとめておきたいこと。それは、ここで示されている血は、〈誰が流した血なのか〉という点です。

 

災いの最後に、過ぎ越しの小羊の犠牲の血がイスラエルの民の家の鴨居と柱に塗られたことにも深い意味があります。

 

救いのみ業はキリストの十字架の血潮抜きには、決して成就しないことと結び付いているからです。クリスチャンとして旧約を読むということは、見えないところに、主イエスの姿を見出し続けることなのです。end

 


2020年9月27日 教会の庭にて 10月のカイドウ
2020年9月27日 教会の庭にて 10月のカイドウ

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/09/27

出エジプト記 6章1節~13節、6章26節~30節

「 信仰はぴょんである 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

出エジプトのために神さまがお立てになった人。それが「モーセ」でした。

 

神さまはモーセに対してこれまでも手厚い支えを約束されていましたが、ここではさらに、「契約」「思い起こす」「導き出す」「救い出す」「腕を伸ばす」「贖う」「あなたたちの神」「導き入れる」「地を与える」などの極めて重要な事柄の連続によって改めて語りかけられたのです。

 

しかも、神さまはまるで〈実印を押す〉かのようにして堅く約束されます。それが「私は主である」という言葉です。

 

この言葉は、聖書全体でも民数記19章の他は限られた場所でしか使われません。とりわけ、この箇所では、神さまがどのようなお心を持って行動されるのかについて注意喚起するために、初めに〈実印〉をぽんと押し、さらに、終わりにも念には念を入れて〈実印〉を押し直すかののような形で語られたのです。

 

しかも、「私は全能の神である」という滅多に使われない言葉を添えておられます。

 

**************

 

神さまからの約束を聴いたモーセは勇気をもってファラオに向き合って語ろうとするのですが、どうしても一歩を踏みだせません。

 

40歳の時から80歳の今まで、逃亡先のミディアンに暮らし、そこで骨を埋めるつもりで生活をしていたわが身を振り返ると、彼は自分の語る言葉に自信を持てません。自分の口から発せられる言葉に重みがあるとはとても思えないわけです。

 

そのことは、出エジプト記6章後半で繰り返される、「私の唇には割礼がありません」という不思議な言葉で表現されているのです。

 

**************

 

ここに居られる神が「全能の神」であることを思い起こしましょう。

 

神さまは、モーセに足らないところがあることを承知の上で彼を選ばれたのです。それが、私たちクリスチャンが信じる「全能の神」です。

 

使徒パウロは第一コリント書12章で、「教会はキリストの体」であると語りましたが、「教会には、弱い所、欠けのある部分こそかえって必要なのです」と記しています。

 

実に、このような選びをなさる「全能の神」のお言葉に信頼して〈ぴょん〉と飛んでみることが私たちの信仰生活には必要なのです。end

 

 


◇先週の説教より◇  ☆2020/09/20 

              『 きょうが最後でもいい 』 

                          ルカによる福音書 2章22節~40節

                                    牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

私の大好きなラジオCMに「京都銀行・川柳劇場・おばあちゃん篇」というものがあります。

 

落ち着いた声の男性が、ゆっくりとこう言います。「おばあちゃん 何になりたい 孫がきく」と。

 

「おばあちゃん」が幼い子どもに、「あなたは大きくなったら何になるかなぁ?」と聞くのではありません。逆です。もしも私たちが、小さな子どもから、「おばあちゃん、何になりたいの?」と尋ねられたらどう応えるでしょう。

 

**************

 

「シメオン」という老人が登場します。

 

お生まれになってから間もないイエスさまは、両親に抱きかかえられてエルサレム神殿に運ばれて来ます。シメオンは真面目な人だったようですが祭司でもなんでもない。普通の人です。

 

シメオンは幼子イエスを、力の弱くなった腕から間違っても落としてしまうことのないように、しっかりと抱きしめます。その時、彼は歌い始めたのです。

 

「今私は、確かに救い主を抱きしめました。これで安心して死ぬことが出来ます。もう、いつでもお召し下さい」と。

 

聖書はシメオンのことを、「イスラエル・万民・異邦人」のために待ち続けた人であると紹介します。彼は自分のためだけの人生を思い描いていた人ではない。彼の最終目標は自己実現ではなかった。シメオンは幼子イエスを力の弱った腕に抱きしめた時に、本当になりたい自分に到達したことを悟りました。

 

**************

 

幼子イエスを腕に抱きしめるとは、礼拝でのみ言葉を胸に抱き抱えながら生きて行くことです。そのみ言葉を胸に、週毎の旅路を歩んで行くのがクリスチャンです。

 

しかし同時に、もう一つ忘れてはならないことがあるのです。それは、母マリアに対して、シメオンが「あなたは胸を刺し貫かれるような悲しみを経験する」と預言していたことです。

 

シメオンはイエスさまを胸に抱きながら、イエスの十字架を指し示していた。

 

いのちのみ言葉を胸に生きているはずの私たちでありながら、自分は、イエスを十字架に見捨てる者であることを認める必要があります。

 

そのことがあってこそ、「私は、もう、いつ死んでも構いません」という救いに到達するのです。end

 


2020年9月6日 講壇の献花 グラジオラス
2020年9月6日 講壇の献花 グラジオラス

       ◇先週の説教より◇  ☆2020/09/06

           使徒言行録 16章16節~40節

        「 真夜中の賛美 フィリピにて 」

                  牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

ヨーロッパに渡ったパウロとシラスはローマ帝国の影響下にあったフィリピで牢獄に放り込まれます。切っ掛けは、「悪霊に憑(つ)かれた女奴隷の占い師」でした。

 

パウロによって悪霊を追い出された女は正気を取り戻しますが、甘い汁を吸い続けてきた主人たちは、懐に金が転がり込む宛を失い、激怒するのです。

 

主人たちは、日頃から賄賂を贈って取り込んでいたのであろうフィリピの高官に、「このユダヤ人たちは、ローマの法律に反することばかり教えています」と訴えます。

 

その結果、二人は何の取り調べも受けないまま裸にされ、鞭打たれ、牢獄に繋がれてしまいます。

 

真夜中のこと、パウロとシラスは主に祈りを捧げ、賛美歌を歌い始めました。二人はただ祈るだけでなく、「イエスのみ名」を賛美したのです。歌声は全ての囚人たちの心に染み入りました。そして、彼らの賛美を聴いて下さる神さまは、実に不思議な形で行動を起こされたのです。

 

〈これは神のみ業だ〉としか考えられないことが、次々と起こったのです。主イエスが十字架の死を遂げられた時にも神殿の垂れ幕が裂け、大地震が起こったという記録がありますが、ここでも大地震が起こり、牢に入れられていた者たちの全ての鎖が解けました。

 

脱獄が起こったと直感した生真面目な看守は自害を決意しますが、何と、パウロとシラスにイエス・キリストによる救いの道を教えられ、それを信じ、家族と共に洗礼を受けてクリスチャンとなります。

 

さらに、自らの家に二人を招いて食事を共にしたのです。夜明け前のことでした。その後、パウロとシラスは自分たちがローマの市民であることを高官たちに伝えると、「どうか、ここから出て行って下さい」と平身低頭で詫びを受けることになったのです。

 

私たちキリスト者は、信仰を持っていても不自由があり、思うに任せないことを抱えながら生きています。病気もしますし、人知れぬ苦労も続くのです。苦難があるのです。

 

しかし、祈りつつ歌い、歌いつつ祈ることを大切にする生き方をここで教えられています。実践してまいりましょう。end

 

 


2020年8月30日 教会の〈愛の鐘ロッジ〉
2020年8月30日 教会の〈愛の鐘ロッジ〉

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/08/30

      ヨハネによる福音書 8章1節~12節

        「 光の中を歩いて行こう 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

信仰生活が長くなると邪魔をするものがあります。新鮮な気持ちでこの場面を読むことが出来なくなるのです。

 

姦淫の現場を現行犯でつかまえられて神殿に引きずり出された女は、死を覚悟していたかも知れません。私たちもこの場面を初めて読んだ時、イエスさまはどうされるのだろうと、ドキドキしながら読んだのではないだろうか。

 

律法学者やファリサイ派の人たちが石で殴り殺したかったのはこの女ではなくイエスだったのです。姦淫は一人では成立しませんが、騒ぎを大きくするには女の方が都合がよかった。自分たちがイエスをやり込める所を群衆に見せたかっただけです。

 

**************

 

イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよ」と言われました。究極的には「罪」が問題なのです。キリスト教信仰の要の問題です。

 

誰一人として石を投げる者は居ませんでした。私たちもそこに居合わせたならば、立ち去らなければならなかった。

 

さらに重要なのは、罪人の女は、イエスさまと一対一で向き合う時間をもった、ということです。

 

将棋で勝負がついた時、「負けました」「(手は)ありません」と潔く頭を下げることを藤井聡太さんのニュースで知りました。

 

クリスチャンとは、「私は罪人の頭です」と認めることが出来る人のことです。礼拝は〈共に〉賛美し、祈り、み言葉を聴きますが、その本質に於いて、自分一人だけで主の前に進み出ることが求められているのです。

 

**************

 

画家・レンブラントが描くこの場面の絵を見ますと、闇と光の対比が本当に見事です。

 

私は新共同訳聖書の区切り方に加えて12節を読んで頂きました。

 

なぜならば、「姦通の女」と呼ばれる女は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」のお言葉と同時に、「私は世の光である」と宣言される主イエスと共に十字架を背負いながら歩き出したと考えたからです。

 

彼女はここで、決して意気揚々と神殿を離れるのではありません。しかしながら、イエスさまが自分の罪を担って下さることを確かに感じ取り、新しい人として歩き出したのです。

 

これは私たちの救い、神の国の物語です。end


2020年8月23日 教会の栗の実 秋遠からず
2020年8月23日 教会の栗の実 秋遠からず

      ◇先週の説教より◇    ☆2020/08/23

      出エジプト記 4章27節~6章1節

        「 どこに希望があるのか 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

80歳の時、モーセは神さまからの召しを受けました。エジプトで奴隷状態で苦しみ続けてきた同胞イスラエルを約束の地カナンへと導き出すのが彼に与えられた使命です。

 

しかし、難題が待ち構えていました。エジプト王ファラオの存在です。絶大な権力を持ち、神として崇(あが)められていたファラオの前に、40年前までエジプトの王子であったモーセとて簡単に立つことなど出来ないのです。

 

そんなモーセの助け手となったのが兄アロンでした。出エジプト記4章の最後の場面は、聖書には記されていない行間を想像してみることが必要だと思います。

 

アロンはモーセに代わってイスラエルの12部族の族長たちの元に出かけて行き、語り続けたはずです。それなくして、5章から始まるファラオとの会見の場は生まれませんでした。

 

モーセとアロンは単刀直入に神さまから示されたことをファラオに告げます。

 

実は、それに対するファラオの言葉は、この場面だけの問題ではなく、聖書全体が私たちに対して問いかけ続けている最重要課題と言えます。「主とは一体何者か」という問題です。

 

エジプトに於いてファラオは、我こそが「主である」と考えていました。ところが、エジプトで自分の思い通りの形で労力として酷使してきたイスラエルの民が、三日の道のりを行ったところで「自分たちの主を礼拝したい」と言いだしたのです。

 

猛烈に腹を立てたファラオは、レンガ造りには欠かせないワラを与えることをやめました。それなのに、従来と同じ数のレンガを作れという、あり得ない命令を出したのです。当然、喘ぎ苦しむ民の不満はモーセ達に向かいました。

 

そのような時にモーセが捧げた祈りに注目しましょう。

 

モーセはきれい事ではなく、むしろ率直に「あなたはなぜ」「一体どうして」という思いを神さまにぶつけたのです。ここには私たちの祈りのヒントがあります。

 

神さまは「私の強い手によって」という言葉を繰り返されました。戦うのはあなたではない。「暗闇の力が襲いかかる苦しみ悩みの今こそ、その手を主に委ねよ」と言われる。

 

主は愛する者を鍛錬されるお方でもあります。end

 

 


8月16日(日) 礼拝後には一年前に静かに召されていったNさんの想い出を分かち合う会を行いました。講壇もきれいになって喜んでくれるかな、と思います。
8月16日(日) 礼拝後には一年前に静かに召されていったNさんの想い出を分かち合う会を行いました。講壇もきれいになって喜んでくれるかな、と思います。

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/08/16

      ルカによる福音書 15章11節~24節

        「 ここがあなたの帰る家 」

         牧師 森 言一郎

放蕩息子の譬え話を読むときに知っておきたい背景。それは15章の冒頭で「徴税人や罪人たちの一団」とイエスさまが親しく語らう様子を見てケチをつける「ファリサイ派や律法学者たち」の存在です。

 

譬え話の中に登場する弟息子は罪人側の人を意味し、いつも正しい行動を取っていると自覚している方が後者です。

 

父の生前に財産分与を願い出て旅立った弟息子は永住するつもりで出発しました。「俺には故郷なんて要らない。くそ真面目なあの兄貴に全部任せておけばいいんだ」という気持ちだったのです。

 

時を経て、弟息子は金の切れ目が縁の切れ目という事態に直面します。友達だと思っていた人々はことごとく離れていき、もはや自分が頼ることが出来る人は一人も見いだせないのです。聖書に描かれるイスラエルの人々が忌み嫌う豚。その世話をする仕事に就きますが、ついには豚の餌を何とか食べさせて欲しいという願いを持つに至ってしまう。

 

やがて彼は「故郷に帰ることは出来ないか」「いや、とても無理だ」という考えの行ったり来たりを始めました。そしてついに、「父さんの前に立ったらこう言って謝ろう。いや、召使いの一人になる覚悟をしっかり伝えよう」と決心してボロボロになりながらも帰郷したのです。

 

父は野良仕事から帰ってきた兄が怒りを抑えきれなくなる程に宴会を開いて皆で喜び祝いました。

 

父の姿。それは憐れみ深い神の姿に他なりません。

 

が、なぜか私たちは、自分は弟に似ているか、いや兄息子の方か、というところで思考停止しがちです。

 

本当にそれでよいのでしょうか。否なのです。

 

ルカ福音書6章36節に「あながたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」というイエスのお言葉があります。このイエスさまのお言葉を前提とすることを忘れてはなりません。

 

弟である自分、兄である自分を発見するところで終わるのではなく、父に倣う者となっていく。それは一人だけではとても無理なことです。だから我々は教会として「お帰り」と、まだ見ぬ誰かに言える者になっていく使命に仕え続けていくのです。end

 


2020年8月2日 教会花壇の〈夏水仙〉
2020年8月2日 教会花壇の〈夏水仙〉
2020年8月2日 教会花壇の〈夏水仙〉

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/08/02

使徒言行録 16章1節~15節

      「 彼らの廻り道 わたしたちの道 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

新たな道を進み始めたパウロには〈都市伝道〉の願いがありました。最初に目指したのは「アジア州」で、地中海沿岸の都市〈エフェソ〉のことと思われます。エフェソの海の向こうには〈ギリシア〉が見えますが、その願いは聖霊によって禁じられます。

 

それならばと、次にパウロが訪ねたいと思ったのは「ビティニア」でした。黒海に面する今日(こんにち)のトルコ・イスタンブール方面ですが、今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」のです。

 

二つの否が示されたパウロはやがて港町〈トロアス〉に導かれます。

 

彼はある夜、幻を見ました。「マケドニア州に渡ってきて、私たちを助けて下さい」と一人のマケドニア人が言うのです。

 

これぞ神が示された〈道〉と確信するに至ったパウロは、現在のヨーロッパ大陸へと海を渡ることになります。

 

パウロに〈マケドニア〉を指し示されたのには深い意味があります。マケドニアは紀元前四世紀後半、アレクサンドロス大王によってその名が広く知れ渡り、東方遠征により広大な帝国を建設した国です。

 

しかしパウロの当時のマケドニアは、更に海の向こうのローマによって支配されていました。イエスさまの時代のユダヤ地方をピラトが総督として目を光らせていたのと同じ構図があったのです。

 

ローマの植民都市であるフィリピにパウロが導かれたのは神の必然でした。ローマ皇帝による平和ではなく、主イエス・キリストの福音が届けられる必要がありました。

 

フィリピで出会った紫布を商うリディアは女細腕繁盛記の見本のような人です。どんなに商売が上手く行っても彼女には本物の神が必要でした。求める心にパウロが告げた福音は染み渡ります。

 

洗礼を受けクリスチャンとなったリディアは〈家の教会〉の基を築きます。やがてフィリピの教会は「私が福音の宣教の初めにマケドニア州を出た時も・・・・・・私の働きに参加した教会はあなたがたの他に一つもありませんでした」(フィリピ書4:15)と言われるようになります。

 

パウロを最期まで支え続けたのがマケドニア州・フィリピの教会だったのです。ここに神の愛があります。end

 

  

 


2020年7月26日(日) 十文字平和教会の講壇が改修されて美しくなりました。会員の敏久さんが大工さんで、忙しい時間のやり繰りをして取り組んで下さいました。今後、塗装されて仕上げられます。礼拝開始少し前の1枚です。奥に居られるのは司式の治生さんです。
2020年7月26日(日) 十文字平和教会の講壇が改修されて美しくなりました。会員の敏久さんが大工さんで、忙しい時間のやり繰りをして取り組んで下さいました。今後、塗装されて仕上げられます。礼拝開始少し前の1枚です。奥に居られるのは司式の治生さんです。

◇先週の説教より◇  ☆2020/07/26

      ヨハネによる福音書 6章1節~21節

          「 そこには少年がいた 」

 

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

四つの福音書すべてに記録されている奇跡物語は〈五つのパンと二匹の魚による五千人の給食〉だけです。

 

私たちがヨハネによる福音書を通じてパンの奇跡を行う主イエスのお言葉に聴くとき必要なのは、少し広い視野でこの奇跡物語を読むことです。言い換えるならば、ヨハネ福音書6章全体を意識しながら読むことが求められます。

 

イエスさまは6章27節では「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために生きよ」と言われます。

 

このお言葉の背後にある主のみ心は、五千人の給食の時に群衆が口にしたパンによって満腹を覚えたとしても、人は数日後に誰もが必ず空腹を覚える、という思いです。

 

また、6章36節以下で「神のパンは天から降って来て世に命を与える」「私が命のパンである」と言われる主のお言葉を聴いた人々は、「主よ、そのパンをいつも下さい」と言うのです。

 

このような物語の展開は4章で読んだサマリアの女が「私が与える水を飲む者は決して渇かない」というお言葉を聴いた時に、「主よ、渇くことがないように・・・その水を下さい」と叫ぶのと同じです。「私のことばを信じる者は永遠の命に至る恵みにあずかることが出来る」というイエスさまの祈りがここにはあるのです。

 

パンの奇跡を目の当たりにした人々はつぶやき始めます。そして、自分たちの都合のよい王として利用しようとしていることを察知された主は、ご自身の十字架の死と復活にまで言及されるのです。

 

ヨハネ福音書の五千人の給食の場面で鍵となる存在は〈少年〉です。大人の常識で考えれば全く役に立ちそうにない一人分の弁当を〈少年〉が差し出した時、イエスさまはそれを祝福され、それを分かち合い始めた人々は全員が満腹しました。

 

私たちにも少年のように、主の前に差し出すことが出来るものがあるのです。

 

それは、私たちの小さな〈喜び〉や〈つぶやき〉、〈悲しみや恥〉であったとしても祝福されていきます。神の国は、主のお言葉を信じる者たちのために、今、ここにも備えられているのです。end

 

 


2020年7月19日(日) 教会花壇のアガパンサス
2020年7月19日(日) 教会花壇のアガパンサス

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/07/19

        出エジプト記 4章18節~31節

      「 モーセに示された 一筋の道 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

モーセはシナイ半島の南方・神の山ホレブでエジプトで苦しみの叫びをあげ続けているる同胞イスラエルを約束の地へ導き出す召命を受けました。

 

彼は自らの不安を口にしますが、神さまはモーセに対して様々な支えの手立をお示しになります。とりわけ、兄アロンが口の重いモーセのために、モーセとは異なる形での召命を受けてこちらに向って来ていることはモーセに決断の勇気を与えたようです。

 

モーセは逃亡の地ミディアンに戻り、40年間世話になった義父エトロに挨拶にします。「達者でな(*シャローム)」の言葉を受けたモーセは、妻子をろばに乗せ、いよいよエジプトに向かい始めるのです。

 

ここで注目したいのはモーセが手にしていた〈杖〉です。讃美歌458番1節「信仰こそ旅路を みちびく杖」という歌詞を思い起こします。

 

ホレブ山で神の命じるままに〈杖〉を手にした時に示された不思議な力がありましたが、〈杖〉を手にしていることは、単にみ業を行う力がモーセに与えられるということではなかったのです。信仰者に求められることは、神の言葉に全き信頼を寄せて生きていくことであることが明確に示されます。

 

もう一つ、立ち止まって学びたいことがあります。それはある場所に宿営した際にモーセが神さまに殺されそうになったという事実です。

 

その時、妻ツィポラが、俊敏かつ強引にとった行動があります。彼女は火打ち石を手にして息子の包皮を切り取ったのです。これは神の民イスラエルの男子ならば永遠の契約として必ず受ける必要がある〈割礼〉でした。

 

彼女には「これはまずいことになった」という心当たりがあったと想像します。モーセがエジプトに戻ってリーダーとして歩み出す上で、彼らの息子が割礼を受けていないままであることは、中途半端なままの信仰の姿を意味する端的な徴だったのです。

 

これは、兄アロンと神の山で再会しエジプトに向かい始める直前の出来事でした。決して偶然ではありません。

 

ここには、神さまから私たちへの「あなたの信仰者としての覚悟は出来ているか?大丈夫か」という信仰の問い掛けが秘められているのです。end

 

 


2020年7月5日 教会花壇の姫キスゲ
2020年7月5日 教会花壇の姫キスゲ

       ◇先週の説教より◇  ☆2020/07/05

      使徒言行録 15章30節~16章5節

              「 だんだんと 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

ここには福音が海を越えて現代のヨーロッパ、当時のマケドニアに渡っていく前夜ともいうべき頃のことが描かれています。

 

エルサレムで大きな会議が開催され、今後は律法にしばられず、ユダヤ人にとって絶対だった割礼も異邦人には求めないという決定がなされます。

 

それを受けて「パウロとバルナバ」はアンティオキアに戻り、新たな宣教旅行の計画を立て始めましたが、この時パウロとバルナバは激しい意見対立を起こします。

 

温厚なバルナバはパウロを陰に日なたに支えて来た人で、第一回目の伝道旅行の途中でその任務を放り投げエルサレムに戻ってしまった「マルコ」をもう一度連れて行くことを提案します。しかしパウロは「マルコ」を決して認めなかったのです。

 

その結果「バルナバはマルコを連れ」て故郷キプロス島での伝道に向かうのですが、使徒言行録では、彼ら二人の姿は完全に消えていくのです。しかしこの時パウロが認めなかった「マルコ」は、紀元70年頃にマルコ福音書を書き始めることになるのですから不思議です。

 

一方パウロは、エルサレム教会の信頼できる教師で預言者だった「シラス」を伴い北上を始めます。テサロニケの教会への手紙では発信人の二番目に「シルワノ」としてその名が記録される人です。

 

いよいよ第二回目の宣教旅行の始まりです。パウロは故郷ダマスコを経由し険しい山道を通り抜けてリストラに入ります。

 

リストラには第一回目の伝道旅行で大変世話になったクリスチャンの「エウニケという婦人とその母ロイス」(第二テモテ書1:5参照)が居りました。その家から、教会でも評判がよくパウロが以前から心にかけていた「若者テモテ」を伴いヨーロッパへと向かうのです。

 

パウロは豊かな賜物を与えられていた伝道者でしたが、決してひとりだけで福音を担ってはいけませんでした。「バルナバ・シラス・エウニケ・ロイス・テモテ」という人たちを抜きにしてのパウロはあり得なかったのです。

 

福音は〈だんだんと〉進んで行きます。

 

私たちも、共に喜び、共に涙しながら、福音にあずかる仲間たちと、福音の伝道に励んで行くのです。end

 

 


教会花壇の日日草 2020年6月28日午後
教会花壇の日日草 2020年6月28日午後

◇先週の説教より◇  ☆2020/06/28 

      ヨハネによる福音書 4章1~26節

        「 渇きから礼拝への道 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

 

主イエスはガリラヤに向かわれる時に、敢えてサマリアを通る道を選ばれました。イエスさまの時代の主流派の人々からするとサマリアは忌み嫌う場所でした。

 

しかし、歴史をさかのぼって調べてみると意味深い歴史のある町がサマリアなのです。列王記上16章23節以下が特にそのことについて詳しいですが、北王国イスラエルのオムリ王朝の時代、紀元前886年頃に首都として定められたのがサマリアでした。

 

時が進み、紀元前720年頃、大国アッシリアに攻め込まれたサマリアの働き人は捕虜として連行されます。列王記下の17章にありますが、代わりに入植して来た男たちとの混血がサマリアで始まるのです。

 

混血はユダヤ人が最も嫌うことでした。

 

その時から700年以上が経った頃のサマリアでのことがここに描かれます。サマリアの女と呼ばれるこの人は、五人の夫がいたという複雑な過去と苦悩を抱える人です。

 

これは彼女の個人的な事情と言えるかも知れませんが、サマリアという町のもつ複雑な歴史については、彼女に責任がないことは明らかです。

 

我々の人生にはしばしばそのようなことがつきまといます。そのような女性とイエスさまは井戸辺で出会われるのです。

 

最初、イエスさまが渇きを覚える旅人として描かれますが、いつしか話は逆転。女は永遠の命に至る「渇くことのない水を飲ませて下さい」と懇願するのです。このような話が展開することを女は少しも予想していませんでした。

 

イエスさまはここで、ご自身を信じ、まことの礼拝をささげることこそがあなたがここから生きていくための道であると教えられます。イザヤ書55章8節以下に「私の思いは、あなたたちの思いと異なり 私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」とあります。

 

そのみ言葉の成就の道がここに示されているのです。

 

サマリアの女とは、渇き切っている何かを抱えている私たち自身を指し示してくれる象徴的な存在です。

 

今日、私たちが礼拝できるのは、自らの選びによってではなく、「私があなた方を選んだ」(ヨハネ福音書15:16)と言われる主の招きによるものなのです。end

 

 


2020年6月21日 十文字平和教会講壇献花 君枝さんの分身です
2020年6月21日 十文字平和教会講壇献花 君枝さんの分身です

      ◇先週の説教より◇  ☆2020/06/21

          出エジプト記 4章1~17節

        「 足りなくても良いのです 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

寄留の地エジプトで奴隷として苦しみ続けていた同胞イスラエルを、約束の地カナンへと導き出すための召しを受けたモーセの心もちは複雑でした。

 

かつて、先祖たちに約束されたのと同じように、私はあなたを守り導く、と言われても「はい、わかりました。安心いたしました」とはとても応えられません。

 

ここには、主の招きを三度拒むモーセの姿が記されます。

 

神さまはご自身がモーセと共にあることの約束を〈徴(しるし)〉を通して明らかにされます。特に、モーセの〈杖を蛇に変え〉、また〈蛇を杖に戻される〉不思議な〈徴〉には、重要な意味が隠されていました。

 

当時、神と崇(あがめ)られていたエジプト王ファラオの王冠には「蛇」が刻印されていました。その蛇をモーセが上位に立って自由に操(あやつ)ることが出来ることの顕(あらわ)れだったからです。

 

しかし、モーセはなお、主の言葉に信頼を寄せることが出来ません。「私はもともと弁が立つ方ではありません。・・・・・・口が重く、舌の重い者なのです。」と言います。

 

そしてさらに、「私よりも相応しい人がいるはずです。誰か他の人を遣わして下さい」と続けました。

 

そのとき、神さまはモーセに対して怒りを露(あら)わにされましたが、同時に、「あなたには、兄のアロンが居るではないか。彼は、お前の助け手として、間もなくここにやって来る」という神の備えを明らかにして下さったのです。

 

晩年、「神の人」と呼ばれるようになる偉大な指導者モーセには、明らかに足りないところがありました。

 

ところが、足りないところがある人間を神は必要とされるのです。

 

使徒パウロも「手紙は重みがあり力強いけれど、実際に会ってみると弱々しい」と言われましたが、我々の周囲を見まわしても、完璧な人は一人もおりません。心配りがよく出来る繊細(せんさい)さの裏返しは神経質という具合です。

 

教会は「キリストの体」であり「弱く見える部分がかえって必要」なのです。「私には弱い所がある」ことを素直に語ることが出来る交わりこそは、真実な教会となっていくために必要なことなのです。

 

足りない者として命を賜った神からの福音がここにあります。end

 

 


2020年6月7日 教会花壇のスイセンノウ(酔仙翁)
2020年6月7日 教会花壇のスイセンノウ(酔仙翁)

        ◇先週の説教より◇ 

           ☆2020/06/07

 

          使徒言行録 15章1~29節

      「 インターチェンジに立つ教会 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

ここには十字架と復活の主イエスが天に昇られ、約束の聖霊が降(くだ)ってから20年近くが過ぎた初期のキリスト教会の様子が記されています。

 

考えてみるならば当然のことかも知れませんが、クリスチャンそしてキリスト教会にも、各地で色々と違いがあったのです。

 

初代キリスト教会には大きく分けて二つの流れがありました。一つは12使徒と長老と呼ばれる人たちを中心とする「ユダヤ人」によるエルサレムの教会です。そしてもう一つが、シリア州のアンティオキアに生まれた教会でした。

 

アンティオキアは、パウロとバルナバの第1回目の宣教旅行のスタート地点にもなったところで、ユダヤ教徒だった人たちよりも、聖書の中で汚(けが)れているとされた「異邦人」と呼ばれる人たちが中心になっていた地です。

 

彼らは「律法」を知らない立場であってもクリスチャンとして生きて行くことが出来ることを大いに喜び、世界各地への伝道を願っていた人々でした。

 

**************

 

今日の場面は先ず、アンティオキアの教会に、エルサレムの教会の中でも、とりわけ〈割礼〉を重んじる保守派の人々がやって来て、「異邦人が救われるには、モーセ律法の中でも、とりわけ我々が重んじて来た割礼が大事なのだ」と伝えた時のことが書かれています。

 

すると激しい論争が起こりました。

 

そして、パウロやバルナバ一行はエルサレムに出向き、主イエスが明らかにされた救いは、〈割礼が条件ではない〉ことを自分たちの伝道旅行を振り返りながら伝えたのです。

 

これを聞いたエルサレムの教会の人々の中で、すっと立ち上がって話し始めたのが、自らの異邦人伝道の中で、失敗も驚きも経験して来たペトロでした。

 

ペトロは異邦人にも聖霊が降(くだ)ったこと。救いはイエスの恵みによるのであり、律法を守ることではなく、イエスを救い主と信じることが肝心であることを証ししたのです。

 

**************

 

私たちの教会でも、信仰の生い立ちの異なることを尊重し合い、違いを認め合うことは大切されて来たのではないでしょうか。

 

それは、これからの十文字平和教会を考える上でもかけがえのないことに違いありません。end

 

 


2020年5月31日 ペンテコステ・聖霊降臨日の十文字平和教会の講壇です。君江さんのお宅のカラーが捧げられました。見事です。
2020年5月31日 ペンテコステ・聖霊降臨日の十文字平和教会の講壇です。君江さんのお宅のカラーが捧げられました。見事です。

      ◇先週の説教より◇   ☆2020/05/31

 

           使徒言行録 2章1~13節

        「 聖霊によって生きる喜び 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

キリスト教会の誕生日と呼ばれるのがペンテコステです。聖霊の降臨は、ある日突然、全く思いがけない事として起こったのではありません。

 

今日は聖書全体を見る目でこの聖霊降臨の出来事を考えて行きます。

 

先ず、主イエスの教えの通りにエルサレムに集まって祈りを合わせていた弟子たちの置かれていた状況は、先行きが見通せない不安に満ちたものだったことを思い起こしましょう。そもそも弟子たち自身に力はなかったのです。

 

実はこのことは、2020年の春〈コロナ禍(か)〉の中で復活節の時を歩んで来た私たちの暮らしと、その本質に於いて大いに重なる部分があります。もはや「コロナ以前に戻ることはない」という言葉を聴くような大きな時代の変わり目の中を私たちは生きています。

 

聖霊の力は、どのような時代に生きていた人々の上に働いて来たのか。限られた時間の中ですが、聖書をさかのぼって確認してみましょう。結論的には、神の霊は、混沌とし、先行き不透明で、光を見いだせない時代に必ず確かな力をもって働いていたことが明らかにされていることをお伝えしたいのです。

 

最初に読みたいのは創世記1章の天地創造の場面です。そこには「地は混沌として、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。」とあります。その混沌の中に神の霊は働き「光あれ」と「光」を与えようとされているのです。それが創世記1章の背後にある世界でした。

 

二つ目にご紹介したいのは三大預言書の一つエゼキエル書のみ言葉です。エゼキエルという預言者が活躍したのは、彼らの罪のゆえに起こったこととは言え、メソポタミア文明の栄えたバビロニアに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民が、悲しみと苦しみの中、どうにも先を見いだし得ない時代でした。

 

とりわけ37章は「枯れた骨の復活」という見出しが付けられている箇所で、9節では「霊よ、四方から吹いて来い。・・・・吹きつけよ。すると彼らは生き返る。」とあるのです。

 

まさにこれが聖霊の力であり復活の力です。ペンテコステを迎えた私たちの生きる希望もここにあります。end

 

 


2020年5月24日(日)復活節最終主日 十文字平和教会の講壇で 森牧師
2020年5月24日(日)復活節最終主日 十文字平和教会の講壇で 森牧師

◇先週の説教より◇  ☆2020/05/24

          出エジプト記 3章1~22節

      「 行けモーセ わが民を解き放て 」

 

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

出エジプト記3章は「モーセの召命」の場面として知られています。

 

モーセはヘブライ人の子として生まれ、生後三ヶ月目からはエジプト王の王子の一人として育てられた人です。それだけでなく、40歳から80歳までの間は逃亡者としてミディアン人として生きて来ました。

 

モーセは今、羊飼いとして神の山ホレブにおります。彼はそこで、燃え尽きることのない不思議な柴に遭遇するのです。

 

同時に「モーセよ、モーセよ」という神の声を聴き、「行って、苦しみと痛みの中にあるわが民イスラエルをエジプトから解き放ち、乳と蜜の流れる地に導き出せ」という命を受けるのです。

 

モーセにとってエジプトに戻ることは危険極まりないことでした。ですから彼は「私は何者でしょう。ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出すなんて・・・」と口答えします。

 

しかし神は、アブラハムやヤコブに対してそうであったように「私は必ずあなたと共におり決して見捨てない」という約束を明らかにされたのです。モーセはなお恐れを抱いていますから「イスラエルの同胞は、お前が出会った〈神の名〉を言ってみろ、と言うでしょう」と応えました。

 

その時、神はご自身がどのような存在であるかを告げられたのです。それが「私はおる、私はおるという者だ」というお言葉でした。

 

これは「私はどんな時でも、あなた方と共にある」という宣言です。私たちキリスト者はお祈りの時に〈主の御名によって〉祈ります。〈御名〉とは主イエスが今ここにおられることを信じて祈ることを意味します。それと本質的に同じことがモーセに示されたのです。

 

聖書の神は金太郎飴の神です。

 

モーセへの神の約束は、マタイによる福音書の最後の「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの約束と同じです。

 

彼に力があったから事は動き出すのではありません。神が先なのです。やがてモーセは、燃え尽きることのないその約束に支えられて一歩を踏みだします。

 

同じように、私たちもまたこの約束に支えられて、神の召し出しに応えて生きて行くことが出来るのです。end

 


十文字平和教会献堂前のひとこまが描かれた紙芝居・『一つぶのたね』より
十文字平和教会献堂前のひとこまが描かれた紙芝居・『一つぶのたね』より

 

 ◎先週(5月17日)の説教より 

           『 ティベリアス湖のイエス 』 

            ヨハネによる福音書 21章1~14節

                                         森 言一郎 牧師

 

復活の主イエスは、弟子たちに姿を現された時、息を吹き掛けて「あなたがたを遣わす」と言われました。それは伝道への派遣の言葉でした。

 

では、弟子たちは直ぐに伝道に励み始めたのでしょうか。いいえ、そうではなかった。イエスさまに召し出されるまで、ガリラヤ湖の漁師として暮らしていた弟子たちとっては、幼い頃からの経験がある漁をしている方が楽だったのではないかと思います。ペトロの後を追うようにして彼らは漁を始めたのです。しかし、弟子たちは一匹の魚も獲れないまま夜明けを迎えます。

 

とその時です。岸辺から「おーい、おまえさんたち。何かおかずになるような魚は獲れたのかぁ」という声が聞こえました。それがイエスだと気付かない彼らは、漁の難しさを知らない馬鹿が何か言っている程度にしか思わなかったのかも知れません。

 

私の想像ですが「見れば分かるだろ。アホタレが」などと思いながら「見ての通り、獲れてねぇよ」と言ったのではないか。すると浜辺の男(イエスさまなのですが)は「舟の右側に網を打ってみろ」と言います。弟子たちは渋々その声に従ったところ、網が破れそうになるほどの大漁となり、声の主がイエスだと知ったというわけです。

 

この時ペトロは、わざわざ服を着て湖に飛び込みます。それはとても象徴的な行動です。どんなことが起ころうとも「他の者がどうであれ、私はあなたに最後まで従います」と胸を張っていたペトロ。彼は深層心理のようなものとして、イエスさまの前に裸で進み出ることがどうしても出来なかったのです。己の恥を知る彼は、ありのままの自分をさらけ出す勇気などなかった。

 

けれどもイエスさまは、朝の食事を共にされた後にペトロを呼び出して3度「私を愛するか」と聞かれます。ペトロに意地悪をしているのではない。「あなたは何もかもご存知です」という信仰の言葉をペトロに告白させる呼び掛けでした。

 

ペトロがイエスを通して経験しているゆるしの愛は、他ならぬ私たちのためのものであることを覚えましょう。私たちの礼拝は、その愛を受けるための他には持ち得ない場なのです。end

 

 


2020年5月3日(日)講壇の献花 〈 小手毬と麦と芍薬 〉
2020年5月3日(日)講壇の献花 〈 小手毬と麦と芍薬 〉

◎先週(5月3日)の説教より 

    『 主を頼みにして 勇敢に生きよう 』

                        使徒言行録 14章1~28節

                                       森 言一郎 牧師

 

使徒言行録14章には、パウロがバルナバと共にシリアのアンティオキアの教会から送り出され、異邦人伝道を始めた第一次宣教旅行の終盤が描かれています。舞台は現在のトルコ共和国、中でもリストラという町での出来事に注目しましょう。

 

神さまはリストラで、やがてパウロの「僕」となり「愛する子」とも呼ばれる「テモテ」との出会いを備えておられたのです。「テモテ」は、その後パウロが各地の教会や個人に送った書簡の差出人としてその名が記録されるようになる、掛け替えのない人物です。「テモテ」の姿は14章には一度も出てきません。

 

しかし、第二次宣教旅行が始まって間もない使徒言行録16章の冒頭で、パウロはリストラに暮らしていた「テモテ」を連れて今日のヨーロッパ伝道に赴くのです。

 

パウロとテモテの出会いは、パウロ自身が記した『第二テモテ書』の1章5節からひも解くことが可能です。

 

私は母エウニケと祖母ロイスというクリスチャンになった婦人たちの元に、パウロとバルナバが住み込みのような形で世話になったことが切っ掛けだったと考えています。母はユダヤ人、父はギリシア人という少し複雑な家庭環境に育ったのがテモテでした。

 

テモテにとって福音伝道のために日夜奮闘するパウロの存在は何よりもの学びであり刺激となっていたはずです。テモテはリストラ市内でのパウロの伝道の様子を見つめていました。テモテの心にはパウロが生まれつき足が不自由な人を癒したこと、それにまつわる町中を巻き込む大騒動、さらに、天地万有の創り主なる神についての説教など、一つ一つが深く焼き付きました。

 

そして、石を激しく投げつけられて〈死んだ〉と誰もが思った場面で、パウロがすくっと立ち上がり、その後も、少しも臆すること無く大胆に、キリストの福音の伝道を続けたことは、テモテの夢を大いに育んだのです。

 

パウロの第一次宣教旅行における神さまからの最大の贈り物はテモテとの出会いでした。

 

神のなさる業はみなその時に適って美しい。それと同じことが、私たちの信仰生活でも既に形を変えて起こっているのです。end

 

 


2020年4月26日(日)教会庭の〈ライラック〉
2020年4月26日(日)教会庭の〈ライラック〉

◎先週(4月26日)の説教より 

           『 寄留者となったモーセ 』

                     出エジプト記 2章11~25節

                                          森 言一郎 牧師

 

ここには人生の最後には「神の人」と呼ばれるモーセが40歳~80歳頃迄のことが描かれています。エジプトの王ファラオによるヘブライ(*=イスラエル人)人弾圧は、男の子の赤ん坊の殺害命令において極(きわ)まります。

 

その頃、ヘブライ人の両親の元に生まれ、ナイル川に流された男児がエジプトの王女によって拾い上げられます。それがモーセでした。モーセはエジプトの王子の一人として大切に育てられていくのですが、彼の乳母(うば)は実の母でした。

 

自分の体の中に、ヘブライ人の血が流れていることを彼自身も知っていたのです。

 

40歳の時、ヘブライ人の同胞が重労働の中に置かれているのを視察に訪れたモーセは、エジプト人に激しく叩(たた)かれている同胞を助ける為とは言え、殺人を犯してしまいます。

 

のちに十戒を与えられ、「殺してはならない」という律法の元に生きるモーセにとってそれは十字架となります。ファラオの元から逃亡したモーセがようやく辿(たど)り着いた地はエジプトから遥かに遠い「ミディアン地方」でした。

 

彼は祭司エトロ(別名レウエル)の7人の娘の一人ツィポラと結婚し、40年もの間、ミディアン地方に暮らすことになるのです。

 

父親というものを知らないモーセにとって、エトロとの出会いは、80歳以降の出エジプトの途上の40年間に生かされる大きな意味を持つ時になったと想像します。7人の娘たちへの接し方においてもそうでしたし、祭司という宗教家としての生き方も目の当たりに出来たのです。

 

さらに、荒れ野の羊飼いとして逞(たくま)しさを身につけることは、エジプトの王子として可愛がられているままでは到底出来ないことでした。

 

もう一つ見逃せないのは、出エジプト記18章で義父エトロの訪問によって、リーダーシップを発揮していく為の大切な指導・助言を受けるモーセの姿です。

 

逃亡先での40年間は、彼の人生の中で無駄にならないどころか、80歳~120歳迄の彼の人生を捧げることになる出エジプトの為にも、不可欠な時であったのです。

 

万事が益となることを知り、この先、モーセを支え導いていくのは神の声であることを心に留めましょう。end

 

 


2020年4月19日(日)礼拝堂の献花より
2020年4月19日(日)礼拝堂の献花より

◇先週の説教より◇  ☆2020/04/19

 マルコによる福音書 16章1~8節

 

      「 とりわけペトロに告げなさい 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

最後の最後にイエスさまの元から逃げ出した人、それがペトロでした。

 

しかし、空っぽの墓に姿を現したみ使いは、「とりわけペトロに告げなさい」という言葉を一人の女性に託します。それが「マグダラのマリア」なのです。

 

「マグダラ」というのは地名でガリラヤ湖の港町です。福音書にはイエスさまに従っていた女性たちの名前が幾人も出てくるのですが、いずれの福音書においても常に先頭にその名前が出てくるのが「マグダラのマリア」です。ルカ福音書8章の冒頭の記事を読みますと、マグダラのマリアを含む女たちが生き生きと奉仕をしている様子が目に浮かびます。

 

特に興味深いのは、マグダラのマリアが、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア・・・・・・」と紹介されている点です。

 

ここで私たちが読んでいるマルコ福音書16章10節にも「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」とあるのです。「七つの悪霊」とは、罪深さや汚(けが)れ、社会の中で明らかに仲間はずれにされているような事情があり、それは、ひとさまにそう簡単には言葉に出来ない、深い悲しみや傷を負っていたことをうかがわせます。

 

そのマリアはイエスさまの復活の場面において「恐怖のあまり震え上がって逃げ出した」のです。しかしマリアは、恐ろしさや自分の理解を超えた事態に直面しながらも、復活の証人としてペトロを初めとする男の弟子たちの元に出向きました。

 

「マグダラのマリア」の一歩が無ければ、今日のキリスト教も存在し得なかったのです。

 

神さまは、過去にどのような傷があろうと、恥があろうと、失敗があろうと、人の噂があろうとも全く問題にされないのです。どこかで、誰かから貼り付けられたレッテルや評価など、神さまの愛の元では、何の意味もありません。

 

「マグダラのマリア」は、一歩を踏みだした。2020年の復活祭・イースターを迎えた私たちも、「人生一歩先は光」があることを教えられ、励まされているのです。end

 

 


教会花壇の〈菜の花とおだまき〉
教会花壇の〈菜の花とおだまき〉

◇先週の説教より◇  ☆2020/04/05

マルコによる福音書

     14章27~31、66~72節

      「 鶏の鳴き声は ずっと聞こえた 」

              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

              

ペトロは三度「そんな男は知らない」とイエスさまのことを否みました。

 

過越の食事を終えたあと、「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とオリーブ山で力を込めて誓ったのは、一体、何時間前のことでしょう。あれは心の底からの言葉だったはずです。

 

そうであったからこそ、弟子たちが皆、ゲッセマネから逃げ出し時にも、ペトロは一人引き返し、大祭司カイアファの中庭までついて来ました。遠く離れていたけれども、それでも彼は「主に従う」心を失っていなかった。イエスを愛していたのです。

 

ところが、どうしたことか。ペトロは我が身を守るために、師であり主であるイエスからすーっと離れ始めます。大祭司の中庭に身を隠す場所などありませんから、顔を覆うようにして、出口付近に身を置いたのです。いつでも逃げ出すことが出来るように。

 

しかもペトロは、「あんな奴は地獄にでも行け、とイエスを呪った」と読み取れる言葉を口にしてイエス呪ったのです。サタンはユダだけに入っていたのではなくペトロにも入ったのです。だからイエスさまは、「あなたは、メシアです」と告白したペトロに対して、「サタン、引き下がれ」と厳しく戒められたことがありました。

 

ペトロには大祭司の中庭で聴いた鶏の鳴き声が一生涯ついて回りました。ローマ皇帝ネロの迫害によってローマで殉教したとされるペトロですが、エルサレムでもガリラヤでも、来る朝ごとにいつも鶏の声がつきまとった。彼は生涯涙を流し続けたという伝説があります。

 

しかし、私はそこにこそ恵みがあったと思えてならないのです。

 

ペトロは「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」という主のお言葉を、生涯かみ締めながら、悔い改めの人生を生きて行くことになります。

 

ここに描かれるペトロは私たちの姿です。悔い改めとは瞬間のことではありません。私たちもレント・受難節の時には、そのような苦しみを深く心に刻みなおす覚悟が必要です。復活の朝を待ち望みましょう。end

 

 


2020年3月29日 受難節 レント第5主日の講壇献花の一部部分をzoom
2020年3月29日 受難節 レント第5主日の講壇献花の一部部分をzoom

    ◇先週の説教より◇     ☆2020/03/29

 

    マルコによる福音書 14章43節~65節

          「 裸で逃げ出した人ゆえに 」

          

 イスカリオテのユダの裏切りとイエスさまの逮捕の記事は、描写の仕方は様々ですが、四つの福音書すべてに記録されています。

 

 弟子たちは我が身に危険が及びそうになると、蜘蛛の子を散らすように散って行きました。筆頭の弟子のシモン・ペトロすらも、最終的にはイエスさまを裏切ることになるのです。

 

そのような中、実は、弟子たちの逃亡に関わる記録の中に、マルコ福音書だけに描かれている人物の姿が次のように記されています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げた。」と。

 

この人のことは福音書記者マルコだけが関心を持ち記録しています。私はこの人こそ、マルコ福音書を記したマルコ本人に違いないと考えているのです。

 

この「マルコ」は、使徒言行録13章以下で、ある地点まではパウロとバルナバの伝道旅行に関連して姿を見せている「マルコと呼ばれるヨハネ」であるはずです。

 

パウロはマルコのことを「伝道旅行の途中、身勝手にも、ひとりエルサレムに戻ってしまったどうしようもない奴」と思っていたようです。ですから、バルナバが「もう一度、マルコを連れて伝道旅行に出掛けようじゃないか」と提案したときに、パウロはかんかんになって怒ります。そして、パウロはバルナバと訣別することになるのです。

 

そんなマルコが、ここでは「裸で逃げだした」と書かれています。

 

「裸」という語には当然〈衣服を着けていない〉という意味があります。しかし、この語にはもう一つ「裸の種つぶ」という意味があります。裸になって逃げだした「若者=マルコ」は、のちに〈福音の種つぶ〉として、重要な役割を果たしていくことになったことを示唆(しさ)しているのではないか。私にはそう思えてならないのです。

 

肝心なことは、マルコが自分自身の〈恥〉を隠そうとしなかった点です。このことこそ、福音が福音となっていく鍵であり、教会の交わりの中で重んじられるべきことなのです。

 

教会の交わりに於いて必要なのは自慢話ではありません。恥を恥として語れること。そして、「裸のつきあいは、何よりも神さまとの関係に於いて」ということです。それが出来てこそ、我々は本物のクリスチャン、教会になれるのです。end

 

 


2020年3月22日(日) 紙芝居『一つぶのたね』を旭東教会にて上演し始める前に挨拶される、十文字平和教会の会員にして画家の布下満さんです。
2020年3月22日(日) 紙芝居『一つぶのたね』を旭東教会にて上演し始める前に挨拶される、十文字平和教会の会員にして画家の布下満さんです。

◇先週の説教より◇  ☆2020/03/22

      出エジプト記 1章15節~2章10節

            「 モーセ誕生の時 」

         森 言一郎 牧師

             

「モーセ」。彼はどのような使命を担う人なのでしょう。

 

『エジプトのイスラエルに解放を』という出だしの讃美歌21-186番は大いに参考になります。繰り返しの部分には「行け、モーセ、告げよ、ファラオに。わが民を解き放て」とあるのです。

 

ラメセス二世というエジプト王の時代と思われます。モーセはエジプトで奴隷として苦難の中にあった、イスラエルの民=ヘブライ人を約束の地に向けて導き出すために立てられる人です。

 

そのモーセ誕生の場面で、私たちが注目したいのはモーセ自身ではありません。生まれたばかりのモーセに〈信仰〉というものがあるはずがないからです。

 

**************

 

モーセの両親は「アムラムとヨケベド」と言います。

 

彼らは「男の子が生まれたら一人残らずナイル川に放り込め」という恐ろしい時代状況の中、三ヶ月の間は自分たちの元で男児を育てますがそれも限界です。どうにも隠しようがなくなり、ついにパピルスの籠に幼子をそっと入れてナイルに流すことになるのです。

 

その時、彼らが施したのは〈ノアの箱舟〉の防水加工と同じ仕方でした。とは言え、そのような方法が万全の策であるはずがありません。人間の立てる計画はどんなに手を尽くしたとしても隙があるものです。

 

ただ、彼らは娘ミリアムに「せめて、この子が見えなくなるまでは、お前が見届けておくれ」と頼みます。

 

その時のことです。ナイル川に沐浴にやって来たファラオの娘に気付いた姉は、機転を利かせて「この子にお乳を飲ませることが出来る女について、心当たりがこざいます」と申し出たのです。その結果、乳母にして育ての親となるのが「モーセ」と名づけられる男児の実の母・ヨケベドでした。

 

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)と思わずにはおれません。

 

**************

 

〈自分が自分が〉と思っているうちは、私たちの信仰は本物ではありません。

 

創り主である神さまは、み子イエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架と復活をお示しになる、という思いも寄らぬ仕方で私たちの救いの道をお示し下さったお方です。その愛に一切を委ねましょう。

 

 


2020年3月15日 十文字平和教会の入口の坂道に咲く〈大木の花桃〉
2020年3月15日 十文字平和教会の入口の坂道に咲く〈大木の花桃〉

◇先週の説教より◇  ☆2020/03/15

    マルコによる福音書 14章27節~52節

 「 受難の前に ゲッセマネの祈り 」

        森 言一郎 牧師

 

イエスさまはイスカリオテのユダを除く11人の弟子たちと共にオリーブ山に向かわれました。

 

「ゲッセマネの祈り」として知られるお祈りがささげられる直前に語られたのは、「私は復活したのちに、あなたがたより先にガリラヤへ行く」というご自身の〈死と復活〉を前提とされた言葉でした。

 

弟子たちはそんな主の言葉に力を込めて猛然と反発します。「たとえ、御一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。これは心の底からの言葉です。

 

けれども、イスカリオテのユダに引き連れられた一群と向き合った時、戻って来るペトロを除く弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出します。

 

**************

 

「ゲッセマネの祈り」の場には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行ったと記されていますが、本質的には、弟子たち全員はもちろんのこと、時空を超えて今を生きる私たちに対する強いメッセージがここにはあります。

 

それは「目を覚まして一緒に祈ってほしい」ということでした。「目を覚ましていなさい」はエルサレムに入場されてからのイエスさまのお言葉の中に何度か強調されて語られていることです。

 

ところが彼らは眠りこけてしまいます。そのことが三度にわたって記録されているのです。

 

**************

 

イエスさまは神さまが描かれたシナリオを演じる役者ではありません。生身のイエスは目を覚まして一緒に祈る者を求めておられる。その必死の願いが、「アッバ父よ、み心ならばこの〈杯〉を取りのけてください」という祈りでした。

 

ここに居られるのは実に不思議な救い主です。弱くはかない弟子たちに一緒に祈ってほしかったのです。ここでの〈杯〉とは、端的に申し上げるならば十字架の上で流される血潮です。

 

しかし、イエスさまの祈りに対して神さまは微動だになさいません。祈りは聴かれなかった。否、お聴きになっているのですが、神さまのみ心は十字架の上で遂げられるみ子の死と復活なのです。

 

なぜ、神は微動だになさらなかったのでしょうか。眠りこけてしまう私たちの救いの道はそこにしかなかったからです。end

 

 


布下満作 『一つぶのたね』より 丘の上の教会 現在の教会堂の前の時代の絵
布下満作 『一つぶのたね』より 丘の上の教会 現在の教会堂の前の時代の絵

  ◇先週の説教より◇  ☆2020/03/01

 

    マルコによる福音書 14章12節~26節

 「 主イエスが招かれる食卓にて 」

          森 言一郎 牧師

 

「過越(すぎこし)の食事」は出エジプトの救いと恵みを経験したユダヤ人が、永遠に守るべきものとして律法に定められ、今日(こんにち)でも大切にしているものです。

 

12弟子の一人、イスカリオテのユダは、「過越(すぎこし)の食事」の直前にイエスさまを祭司長や律法学者たちに売り渡す約束をしました。しかしユダは、何食わぬ顔をして「過越(すぎこし)の食事」の席に着くのです。イエスさまが十字架の上で命を落とされる金曜日の午後3時を目前にした、木曜の夜のことでした。

 

弟子たちはその食卓で、イエスさまの口から発せられる驚きの言葉を耳にします。それが「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人が・・・私を裏切ろうとしている」というものでした。

 

彼らは口々に「まさか私のことではと言った」と記録されています。しかし〈どきり〉としたのはユダだけではありません。彼らは皆、心の奥底で、何かあったら逃げ出してしまうかも知れない自分を意識していたのです。

 

事実、イエスさまは「過越(すぎこし)の食事」の直後、筆頭の弟子のペトロに対して、「あなたは今日、今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」と予告されました。

 

新約聖書は「New Testament(ニュー  テスタメント)」と呼ばれます。これは「新しい契約」を意味しています。主イエスはこの食卓で、〈旧い契約〉を打ち破り〈新しい契約〉を宣言されるのです。

 

イエスを救い主と信じる者たちが、二度と過越の食事をする必要がなくなる道を明らかになさいます。エレミヤ書31章には、「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る・・・・・・即ち、私の律法を彼らの胸に授け、心に記す」とあります。

 

これは、出エジプト記の20章以下で、モーセを通じて与えられた十戒が二枚の石版に刻まれたことと深く関係しています。

 

この食卓で裂かれるパンと杯(さかずき)に、主の十字架の愛が凝縮されているがゆえに、これからのち、「主の晩餐=聖餐式」を大切に守り続けることによって、その愛を、あなた方の心に刻み続ける、という約束でした。

 

聖餐式でパンが裂かれ、杯(さかずき)がかかげられる毎(ごと)に、私たちの信仰のまなこは開かれ続けているのです。end

 

 


教会の週報の表紙にも使う絵・満さんの紙芝居『一つぶのたね』より
教会の週報の表紙にも使う絵・満さんの紙芝居『一つぶのたね』より

    ◇先週の説教より◇  ☆2020/2/23

        出エジプト記 1章1節~22節

    「 助産婦が畏れたもの 」

           森 言一郎 牧師

 

ヨセフがエジプトの総理大臣として仕えていた時代から400年が経ちました。当時のエジプト王ファラオは、イスラエルの民に親しい思いは少しも抱いていません。むしろイスラエルの民の勢いに脅威を感じ始めていたのです。

 

そこでファラオはイスラエルの人々に過酷な労働を課します。それは奴隷として働く者たちの命を落とすことを願うような危険が伴うものでしたが、現実にはイスラエルの民の数は増え始めたのです。

 

そこでファラオから発せられたのが、「ヘブライ人に子どもが生まれてくる時、男児は無き者にせよ」という命令でした。

 

その命令を直接聴いたのがヘブライ人の二人の助産婦でした。ところがです。助産婦たちは、その仕事に仕える者としての使命感を超えて、神を畏れること故に、王の命令に従うことをしませんでした。何があっても〈神を畏れ〉る生き方を貫き通したのです。

 

**************

 

「ウイット」という言葉があります。「相手の無神経で攻撃的な態度や言動をやんわりとかわし、自分に有利な情勢をもたらしたりする、気のきいた言葉やとっさに出せる才知」がその意味です。

 

助産婦たちはそのウイットを利かせてファラオにこう言いました。

 

「ヘブライ人の女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまいます。」と。

 

人を恐れず〈神を畏れた〉彼女たちは、その後も出産の手助けを続けました。だからこそ、エジプトに暮らすヘブライ人たちの間では男児の誕生が続くのです。二人はエジプト王ファラオに対して、牙をむいて力で向き合ったのではありません。細腕の女たちです。

 

しかし、彼女たちは、この世の神として讃(たた)えられる者に対して、信仰に立つ知恵を用いて、したたかに闘ったのです。

 

**************

 

主イエスはマタイ福音書5章の「山上の説教」の中で宣言されました。「あなたがたは地の塩、世の光である」と。

 

とりわけ「塩」は姿を消して溶け込んでこそ、その役目を果たせます。

 

キリスト者として生きる私たちは、どこかで産婆役としての使命を自覚しながら、今、この時代の呻きと痛みの中にある人々に寄り添い、共に生きることが求められているのです。end

 

 


2020年2月16日  十文字平和教会の礼拝をご一緒して下さった Yさんのお話に耳を傾ける
2020年2月16日  十文字平和教会の礼拝をご一緒して下さった Yさんのお話に耳を傾ける

◇先週の説教より◇  ☆2020/2/16

        使徒言行録 13章1節~52節

  「 恩返しを始めた人 パウロ 」

 

         森 言一郎 牧師

 

初代キリスト教会を息を弾ませながら迫害していた人。それが「サウロ」でした。

 

彼は昔の自分はこういう人間だったと「フィリピの信徒への手紙 3章」で記しました。

 

「私は・・・・・・ヘブライ人(じん)の中のヘブライ人(じん)。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者。」と。

 

しかしそのような「サウロ」が、ユダヤ人の世界に留まらず、異邦人の世界に向けての伝道者として活躍し始めるのが使徒言行録13章です。出発の地は12使徒を中心とする教会のあるエルサレムではなく、異邦人によって形作られていた教会があるシリアのアンティオキアでした。

 

最初の目的地はキプロス島。バルナバの出身地です。実はこのキプロス島での伝道以降、「サウロ」という名は消え、「パウロ」が使われ始めるのは偶然ではありません。キプロス島での伝道を通じて「サウロ」を乗り越えて新しい人「パウロ」となっていくのです。

 

キプロス島を船出し現在のトルコ共和国に上陸した後に向かったのがピシディアのアンティオキアです。パウロが語った説教としては初めてのものが克明に記録されています。

 

その中身は、「律法の教えの元でどんなに努力して善い人間になろうとして頑張ってもやがて限界にぶち当たるし、朽ち果ててしまう。ダビデ王ですらそうだった。しかし、死を打ち破り復活なさって、永遠を我らにお示しくださったイエスを救い主として信じるならば、違う道が示される。」というものです。

 

さらに言葉を添えるならば、「ただ信じることなんだよ。自分の力ではなく、罪を認め、主イエスのお言葉に信頼して全てをお任せするならば、異邦人でも一人の例外もなく救われる。義とされるのは律法を守ることではない。」というものでした。

 

人々が「次の安息日にも同じ話をしてほしい」とパウロに頼む程の衝撃、否、ある意味でのスキャンダラスな内容でもあったのです。律法ではなくキリストの福音に生きる扉が開いたのです。

 

だからこそ、私たちは救われました。そして、私たち十文字平和教会がこの丘の上に生まれたのです。end

 


2020年2月2日(日) 十文字平和教会の講壇ではありませんが、十文字平和教会の〈勝さん〉の笑顔を旭東教会の礼拝の中で紹介している場面です。
2020年2月2日(日) 十文字平和教会の講壇ではありませんが、十文字平和教会の〈勝さん〉の笑顔を旭東教会の礼拝の中で紹介している場面です。

◇先週の説教より◇  ☆2020/2/2

 マタイによる福音書 20章1節~16節

   「 この最後の者にも 」

         森 言一郎 牧師


30年程前、私は神学校の入学試験に備えて「イエスさまの譬え話」を必死になって学んだ思い出があります。幾つかの譬え話の大筋を暗記して準備したのですが、思いの外むずかしかった。

 

今なら、そこには明確なわけがあったことがわかります。イエスの譬え話は、この世を賢明に生きていくための知恵や秩序が語られているものではないからです。

 

あの、ルカ福音書15章の放蕩息子の譬え話も本質的には同じです。弟息子が勝手放題したのちに、異邦の地で穢(けが)れを身に負い、ボロボロになって帰って来たあの日、いつでも父親の言うことを聞き、コツコツと真面目にやって来た兄の気持ちを逆(さか)なでするようなことが起こります。

 

父は「皆で一緒に喜んでくれ」と大宴会を開くです。そこにはある種の非常識さがありました。

 

マタイによる福音書20章の「ぶどう園の譬え話」では、早朝6時から働いている人と、夕方5時からのたった一時間しか働かなかった人が、皆と同じ一日分の賃金・一デナリオンを受け取りました。

 

地道にコツコツと努力してきた者が、それ相応の報酬をもらえるというのなら、誰もが納得したはずです。ところがイエスさまは、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と仰ったのです。

 

この譬え話を聞いていた人々の中で、特にファリサイ派の人々や律法学者たちは腹をたてたことでしょう。その行きつく先が、イエスさまの十字架の上での死だったのです。

 

ここで私たちに求められるのは考え方の切り替えです。イエスさまの譬え話の中の「天の国」とは、死んだら行くところではないのです。「天の国」は、今を生きる私たちの教会生活のただ中にこそ見いだすべきところなのです。

 

私たちは歳を重ねると出来なくなる事があります。いいえ、たとえ若い時でも、病気をすれば思うように働くことが出来なくなるのです。あるいは、生まれながらの障がいがある場合でも同じです。

 

しかし、幸いなことにイエスさまは仰いました。「あなたの存在の貴さは働く時間の長さや貢献の度合いに依るのではない」と。ここに私たちの救いがあります。end

 


1月26日 アオサギ・ダイサギとコガモ:教会下の小川にて
1月26日 アオサギ・ダイサギとコガモ:教会下の小川にて

    ◇先週の説教より◇  ☆2020/1/26
創世記 49章29節~50章26節
    「 あなたが神に出会うことを 」
           森 言一郎 牧師


創世記の最終盤に記されているのは、この世に生きる者が一人の例外もなしに、やがて直面することになる「死」の問題です。

 

ここには〈私たちの人生の物語〉が秘められています。そして〈私たちの家族の物語〉が見いだされると言っても過言ではありません。

 

とりわけ、私たちがしっかりと立ち止まって見つめたいのは、父ヤコブの盛大な葬送、そして、埋葬を経て浮き彫りになってくるヨセフの兄たちの姿です。

 

父ヤコブが天に召されるまで守ってくれていたあれやこれやが無くなり、彼らは急に不安になって来ます。かつて弟ヨセフに対して犯した愚行やたくらみを、ヨセフは赦していないのではないか。そのような恐れの心が大きくなっていたのです。

 

相談の結果、まず、遣いの者を通じて彼らはヨセフに伝えます。父ヤコブが「ヨセフよ。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい、と言っていました」と伝えるのです。

 

しかしその言葉は、あくまでも父ヤコブの言葉でした。彼らはそれに続けて「お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」と自分たちの罪を告白するに至ったのです。兄たちにはどうしても「ヨセフよ、本当にすまなかった」という言葉が必要でした。

 

これを聞いたヨセフは泣きます。実に複雑な涙でした。しかし、ヨセフは言ったのです。「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に〈変えた〉のです」と。

 

ここでの「神はそれを善に〈変えた〉」とは〈命のリバイバル・覚醒の出来事〉が起こっている、という意味です。神さまに依らなければ出来ない変化が起こっています。

 

けれども、決してヨセフという人間が慰めを示しているのではなく、主人公は神さまなのです。創世記は最終章の50章で、「あなたがたが出会うべきは神である」ことを告げています。

 

その神とは、十字架の上で血を流され復活を遂げられる、救い主イエス・キリストをこの世にくださるお方なのです。創世記はその最後で、私たちの救いの道筋を明らかに指し示しているのです。end

 


教会前の道端に咲く1月のタンポポ
教会前の道端に咲く1月のタンポポ

    ◇先週の説教より◇  ☆2020/1/19
        使徒言行録 12章1節~24節
 「 ペトロさん お疲れさまでした 」
          森 言一郎 牧師

 

使徒言行録12章の冒頭に登場する「ヘロデ王」とは、マタイ福音書2章に出てくるヘロデ大王の孫で「ヘロデ・アグリッパ一世」という人のことです。

 

ヘロデはエルサレムの教会の中心メンバーであるヤコブを殺害しました。人々が喜ぶ様子を見るとその手はペトロに及びます。しかし12章の最後の方では、「ヘロデ・アグリッパさまは、我らの神です。万歳!」という称賛を受けることを神さまは見過ごしにはされず、裁きを下されました。

 

反対に、どのようなことが世に起ころうとも、神の言葉はびくりともせずに、伸展していく様子を聖書は私たちに伝えるのです。

 

使徒言行録は28章まで続きますが、中でも12章は大きな変換点となります。次の13章からはパウロに〈異邦人伝道のたすき〉がバトンタッチされるのです。

 

その前にスポットライトが当たるのはペトロです。ここに描かれるペトロは聖霊降臨の直後、雄弁かつ大胆に説教していた人とは違います。あるいはまた、地中海沿岸寄りの町々で癒やしの奇跡を連続して行ったペトロとも違うのです。少しの華々しさもなく徹底的に受け身の人です。

 

牢屋に入れられ、教会の人たちに祈られている。そんな中、鎖に繋がれていた彼は、み使いの存在を疑いながらも立ち上がります。天使から「帯を締め、履物を履きなさい」と言われればその通りにしますし、「上着を着て、ついて来なさい」との声にも従います。

 

ペトロはほっぺたをつねって「夢か?」というような思いも抱きますが、目の前の鉄門が開き、一人になった時、ハッと気が付いたのです。「今、初めて本当のことが分かった。〈主が〉・・・・・・ 私を救い出してくださったのだ」と。

 

ここに描かれるペトロは私たちが身近に感じられる人です。特に「今、初めて本当のことが分かった」とペトロが口にした言葉に大いに共感を覚えます。

 

「初めて本当のことが分かった」とは、裏を返せば、「これまで分かっていなかった」ということです。神さまは何もかもを理解している人を求めてはおられません。ここには私たちのための確かな福音があるのです。end

 

 


2020年1月5日の十文字平和教会の礼拝のひとこま 左 司式者の満さんです。新年の献花が見事ですね。
2020年1月5日の十文字平和教会の礼拝のひとこま 左 司式者の満さんです。新年の献花が見事ですね。

  ☆先週(1月5日)の説教より
   『  素通りできない

      悪人のクリスマス 』
       マタイによる福音書 2章13節~23節
                                         森 言一郎 牧師

 

東方の博士たちにだまされたと悟ったヘロデ大王は自らの地位を脅かす者を認めません。ユダヤ中の2歳以下の男子の皆殺しを命じます。

 

そんな中でヨセフは、主の天使のお告げに従い、マリアと幼子イエスを伴ってエジプトに身を隠します。さらにみ使いによってヘロデ大王の死の知らせを受けた一家は帰って来て、今度はナザレに身を落ち着けることになるのです。

 

**************

 

ところで、私の推測ですが、福音書を記したマタイは、彼の筆による福音書の第一の聞き手として想定していたであろうユダヤ人たちに、二つの聞き方があると考えていたと思うのです。

 

一つは腹を立てながら1章の「系図の話」を聴いていた人たちです。しかしその一方で、期待をいだき始めた人々が必ず居たことを思います。

 

今日の場面では、マタイが引用したエレミヤ書31章のみ言葉に重大な鍵が秘められています。旧約について熟知していない我々が一読するだけでは、残虐な行為ばかりが心に残ります。こんなむごい話は読み飛ばしてしまおう、と思うような内容だけが記録されているからです。

 

ところが、エレミヤ書31章16節以下を実際に開いてみますと、マタイが引用していないみ言葉が続いていることに気付くのです。

 

そこには、「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」とあるのです。

 

マタイの言葉にじいっと心を傾けていた人々は、「あんたが言いたいことは、引用していない、そこのところなんだろう」と思っていたのだ、と推測しているのです。

 

**************

 

イエスさまはヘロデによって殺されることはありませんでした。しかし、救い主は十字架の上で命を投げ出さなければならないのです。

 

ヘロデ大王以上の悪人は、イエスを見捨てて逃げ出してしまう弟子たちや私たちの方ではないだろうか。「まことの悔い改め=生き方の方向転換」が出来る者でありたい。

 

新しく始まった2020年もここから歩み始めたい願います。end

 


2019年12月29日 2019年さいごの礼拝 クランツを置いている台をあらためてみると、これは優れものと気付きました(^^♪
2019年12月29日 2019年さいごの礼拝 クランツを置いている台をあらためてみると、これは優れものと気付きました(^^♪

◇先週の説教より◇  ☆2019/12/29
 ヨシュア記 2章1節~24節
 マタイによる福音書 1章1節~6節前半より
    「 救いの道 ラハブに依って 」
             森 言一郎 牧師

 

「ラハブ」はヨシュア記2章1節で「遊女」と紹介される人です。

 

それにもかかわらず「ラハブ」はマタイによる福音書1章のイエス・キリストの系図の中にその名が出てくる大切な存在なのです。

 

ヨシュア記の舞台は「エリコ」です。エリコは聖書以外の文献にも出てくる古代の大都市ですが、ラハブはそこに暮らす女でした。

 

イスラエルの民はモーセに率いられエジプトの奴隷状態からの脱出をはかり、荒れ野の40年の旅路を経て約束の地を目指します。

 

目の前にはヨルダン川が行く手を阻みますし、エリコの城壁も立ちはだかります。そのようなエリコに、モーセの後継者としての任命を受けたヨシュアは、二人の斥候を送り込みます。

 

その二人を、見事に機転を利かしてかくまい、助けたのが「遊女ラハブ」だったのです。

 

私たちは「遊女」と聞くだけで「とんでもない女に違いない」と決めつけてしまうところがあります。しかし、丁寧に聖書を読んでみると、ラハブには「父親も母親もいますし、兄弟も姉妹もいた」と書かれています。

 

つまりラハブは、古代の大都市エリコの中にあって、家族を養うためにおそらく宿屋の主人として働き、やむを得ない事情を抱えながら「遊女」として生きていた人なのです。

 

「律法」に照らし合わせるなら、ラハブは罪人の烙印を押される存在です。ところが神さまは、ラハブのような存在を決してないがしろにはなさいません。

 

むしろ、ラハブのような事情の中に生きる者を慈しみ、用いられる中で、救いの道を明らかにされるのです。

 

ラハブは二人の斥候に対して、イスラエルの民がエリコに入って来た時に一家を助けてほしいと願い、「アーメンを約束して下さい」と求めました。

 

そのとき示されたのは「真っ赤なひもが窓に結ばれていたら守られる」ということばでした。

 

「ひも」という語には、「望み・希望・期待・きずな」の意味があるのは偶然ではありません。神さまは、ラハブのような小さくされ、軽んじられる者を用いて「約束の地」が意味する「神の国」の扉を開かれます。

 

そこには、今を生きる私たちが生きて行く希望が見えるのです。end


2019年12月22日(日)のクリスマス礼拝後の愛餐会にて 良き訪れが届きました。安奈さんの賛美、としちゃんのギター 聴き入りました(^^♪
2019年12月22日(日)のクリスマス礼拝後の愛餐会にて 良き訪れが届きました。安奈さんの賛美、としちゃんのギター 聴き入りました(^^♪

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/12/22
    マタイによる福音書 1章18~25節より
   「 救いが宿る場所 」

         森 言一郎 牧師

 

マタイ福音書1章のキリスト降誕の物語で私たちがしっかりと心を向けたいのはヨセフの信仰です。

 

ルカ福音書におけるマリアへの天使ガブリエルによる受胎告知の後、ヨセフは思いも依らぬマリアからの告白を聞いたはずです。しかし、どんなに「聖霊によって」であろうとも、「マリア、それはよかったね」とはすぐに言えないものでした。

 

聖書はヨセフの人となりについて「正しい人であった」と紹介しますが、その正しさとは、神の教えである律法に対して忠実な人という意味です。律法に依るならばマリアは石で打ち殺されても仕方のない存在でした。

 

ヨセフは苦悩の中を過ごしたはずです。そして彼は、マリアとの縁を一度は切ろうと決心したのです。ところが、人の思いを越えた道が示されていきます。

 

マリアにも示され、ヨセフも聞いた生まれてくる子どもの名前は「イエス」でした。「彼は救い」という大切な意味があります。しかし当時の社会において「イエス」はありふれた名前なのです。

 

けれども興味深いことに、福音書記者マタイは、南王国ユダの「アハズ王」(前744~729年)の時代に預言者イザヤを通じて示された「インマヌエル」という名が、ヨセフに改めて示されたことを記録しています。

 

「インマヌエル」とは「神われらと共に」という意味です。これこそが、ヨセフの人生を根底において支えていくものとして示された約束でした。アハズ王には出来ませんでしたが、ヨセフはこれを信じ眠りから起き上がります。インマヌエルを信じたヨセフの存在抜きには、その後のマリアの存在もあり得ません。

 

聖書の中で「インマヌエル」という言葉は3度しか出てきません。

 

しかし、そのままの言葉が使われていなくても、神さまは、ヤコブにもモーセにもヨシュアにも「私はあなたと共にいる」という約束の言葉を示され続けました。

 

何よりマタイ福音書の最後の28章20節においても「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束が、復活の主を通して弟子たちに与えられています。

 

「インマヌエル」を信じる人に救いは宿る。それがクリスマスの福音なのです。end

 

 


2019年12月15日 アドヴェント第3主日 クランツと献花
2019年12月15日 アドヴェント第3主日 クランツと献花

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/12/15
  マタイによる福音書

     1章1節~6節前半より
「 救いの道 ユダとタマルに依って 」
         森 言一郎 牧師

 

マタイによる福音書の冒頭には、イエス・キリストの系図が延々と記録されています。こんな名前の羅列にどんな意味を見いだせるのかと、我々は戸惑いすら覚えます。

 

しかし、この福音書を初めて聴いたイスラエルの人々は、系図が大好きでした。けれども、福音書記者マタイが記した系図に、5名の女性が登場することに対しては、たいそう腹を立てただろうと思われます。

 

ふつう、ユダヤ人の系図に女性の名前は出て来ないものだからです。創世記38章を見ますと「タマル」は、族長ヤコブの四男「ユダ」が息子のために探してきて一族の嫁とした女性であることがわかります。

 

ところが、タマルの夫は神の裁きを受けて死にます。再婚した次男も同様に神さまに命を取り上げられるのです。

 

本来なら、タマルはユダによって三番目の息子と再婚するのが筋でしたが、義父ユダに疫病神扱いされ、里に送り出されて、独り待ち続けるのです。

 

いつまで経っても呼び戻されないタマルは、一族の嫁として、当時の最も大切な務めである子どもを生むために行動を起こします。それは、娼婦になりすまして舅(しゆうと)から子種を得るという仕方でした。

 

やがて、タマルは義父・ユダの子を宿し、双子の母親となるのです。こうしてタマルは、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」と記録され、イエス・キリストの系図に記録される女となったのです。創世記38章26節には義父・ユダが「私よりも彼女の方が正しい」と自身の罪の自覚を告白したことが記録されています。「ユダ」と「タマル」の二人共に、救い主の〈系図〉に欠かせない人物なのです。

 

人が人生の途上で経験してきたスキャンダルを『聖書』は包み隠さずに記します。

 

これは私たちと無縁ではありません。

 

なぜなら、他人(ひと)に胸を張って語ることなど出来ない恥や過去と傷を抱えもち、心の奥底に封印しているからです。

 

『聖書』はそんな私たちの存在を明確に肯定します。だからこその〈福音〉なのです。我々の消えない傷をイエス・キリストが全て負われました。アドヴェントはその救いの到来を待ち望む時なのです。end

 

 


十文字平和教会の敷地内の小屋でできた見事な〈シイタケ〉たち。勝さんがあれやこれやとご奉仕下さっています。(^^♪  お世話になっている教会にお届けしたり、教会のみんなで分かち合ったりです。
十文字平和教会の敷地内の小屋でできた見事な〈シイタケ〉たち。勝さんがあれやこれやとご奉仕下さっています。(^^♪ お世話になっている教会にお届けしたり、教会のみんなで分かち合ったりです。

    ◇先週の説教より◇ 2019/12/01
 ルカによる福音書 19章1節~10節より


「 クリスマスを待つということ
       ザアカイの物語より 」
          森 言一郎 牧師

 

イエスさまはエルサレムまで30㎞程の所にあるエリコに入られます。どうしても出会わなければならない人・徴税人の頭(かしら)ザアカイが居たからです。当時、徴税人は罪人と同様に見做され、蔑(さげす)みを受けていました。

 

ザアカイはイエスさまがエリコをお通りになるという知らせを聞いた時、イエスというお方を直(じか)に見たいものだと強く思います。同じ徴税人だったレビが12弟子の一人として活動していることを知っていたからです。

 

人々は列をつくってイエスを待ちます。ザアカイもその列に入りたかったのです。ところがそれは叶(かな)いません。ザアカイ一人が入る位の隙間をつくることは本当なら出来たはずですが、人々は無視します。

 

金持ちであったザアカイは小柄な人でしたが、この場面、彼の存在の軽さと小ささが浮き彫りになります。それならば、ということで、ザアカイはイチジク桑の木に登り、身を隠してイエスを待ったのです。

 

ところが不思議なことが起こり始めます。

 

あらぬ方向に進み始めたイエスさまは、何とザアカイが登っていた木の真下に立ってこう仰った。「ザアカイ降りて来なさい。今日、私はあなたの家に泊まらなければならない」と。

 

その後のザアカイは一つの決心をします。徴税人の頭(かしら)としてやり過ぎていたことがあることを正直に認めたのです。悔い改めです。イエスさまは、ザアカイがこれまで誰にも話すことが出来なかった孤独や嘆きをも聴き続けて下さったはずです。

 

ルカによる福音書2章のイエスの降誕物語において、ベツレヘムで宿を取ることが出来なかったヨセフとマリアは、誕生前のイエスを伴って旅をしていた人たちです。

 

しかし、宿屋にはマリアのお腹の中のイエスが入る隙間もなかったのです。人々は無関心でした。だからこそイエスは家畜小屋でお生まれになるのです。

 

ザアカイがイエスを迎える列に入る隙間を見いだせなかったことと、イエスの誕生の場面は不思議な一致があります。

 

救い主は、どこに、どのようにお出でになるのでしょう。クリスマスを前に私たちは静まって姿勢を整えるべき時、アドヴェントを迎えています。

 


2019年11月24日 イスラエルの旅から無事にお帰りの君枝さん 彼の地でのご自身のために購入された木の実とアクセサリーを嬉しそうに見せて下さいましたo(^o^)o
2019年11月24日 イスラエルの旅から無事にお帰りの君枝さん 彼の地でのご自身のために購入された木の実とアクセサリーを嬉しそうに見せて下さいましたo(^o^)o

◇先週の説教より◇  ☆2019/11/24
            創世記 47章27節~48章22節より
    「 旅立ちの前に 何を遺しますか 」
             森 言一郎 牧師

 

創世記25章から始まった「ヤコブの物語」は終幕を迎えようとしています。

 

この場面を読み進める上で押さえたい事実があります。それは12部族の始祖とも言えるヤコブ、別名イスラエルが、正真正銘の罪人(つみびと)だということです。ヤコブは双子の兄エサウが嗣ぐべき長子の祝福を、父と兄を欺いて奪い取った張本人でした。

 

ところが、聖書の神は罪人を豊かに用いられるのです。ここでは不思議な形で福音の本質が明らかにされていきます。

 

エジプトの総理大臣になっていたヨセフとの再会を果たしてから17年が過ぎ、147歳になったヤコブは、人生の幕引きの時を迎えます。彼はヨセフの息子、マナセとエフライムを呼び寄せて祝福を始めました。腕を交差させ、次男のエフライムを優先させる不思議な仕方です。二人の孫は、ここで養子縁組の形でヤコブの子となり、嗣業(しぎょう)の地を継ぐ部族の基(もとい)とされるのです。

 

この時、ヤコブが交差させる腕がイエスの十字架を想わせるのは偶然ではありません。

 

ヤコブは、自身を救い、愛して下さった神がどのようなお方であるかを明らかにしながら祝福します。祖父アブラハム、父イサクと同様、我が人生に於いてもいつも共にあったことを告白するのです。

 

より具体的には、神は「牧者=羊飼い」としていつも養い、導き、自分を捜して下さり、赦し、抱きかかえて連れ戻して下さったことを言葉にしています。

 

もう一つは「贖(あがな)い」の神であるという点です。「贖い」には何かから解放して下さり自由にして下さるという意味があります。何より罪から救いだして下さるという意味が根底にあるのです。

 

讃美歌459番「飼い主わが主よ」をぜひ味読してみて下さい。

 

誰しもが平等に迎えるのが死です。人生の終末を迎えようとする時に思い起こすべき大切なことがあります。

 

大切な子どもたちや教会の仲間たちにバトンタッチして行くべき、目には見えないけれど大切なものがあるはずです。罪人の私は何を遺(のこ)せるのでしょうか。

 

それは「くすしきみ恵み」に他ならないはずです。私たちも祝福の基(もとい)とされているのです。感謝。end

 

 


十文字平和教会から見えた秋の夕焼け その2
十文字平和教会から見えた秋の夕焼け その2

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/11/03
      ヨハネによる福音書 1章1節~14節より


      「 ヨハネの声が聞こえますか 」

          森 言一郎 牧師

 

ヨハネによる福音書にはクリスマスに関わる出来事は記録されているのでしょうか。

 

マタイやルカ福音書とは違って、ヨハネ福音書には幼子イエスの物語は見当たりません。この福音書が生まれたのは紀元100年頃だと言われます。読者は異邦人。言い換えるならばユダヤ地方に生きるユダヤ人ではありません。

 

一体どんな表現をしたら、イエスさまの話を聴いてくれるだろうかと福音書記者ヨハネは真剣に考えたのです。異邦人は、イエスの降誕にまつわる系図などには興味がないからです。

 

そこで用いられたのが1章1節の「初めに言(ことば)があった」から始まるみ言葉でした。最新の日本語の聖書を翻訳された田川建三先生が「はじめにロゴスがあった」と訳されたように、翻訳がむつかしいことばです。

 

けれども、一度読むと忘れられない力や味わいがあります。福音書記者ヨハネは思いつきで「初めに言(ことば)があった」と記したのではありません。

 

祈り求める中で、聖書の一番初めにある創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された」に応答させる形で記す知恵が与えられたのです。ヨハネ福音書の冒頭には「暗闇」と「光」がありますが、創世記にも「混沌・闇・深淵」があり「光あれ」と続いているのは偶然ではありません。

 

ヨハネにとって「言(ことば)」とはみ子イエス・キリストのことであり、「世」とは私たち人間のことです。

 

「世は言(ことば)を認めず、受け入れなかった」と記されています。しかし、「言(ことば)」を信じて受け入れる人は、一人の例外もなく神の子となり永遠の命を受ける、というのがヨハネ福音書の中心メッセージなのです。

 

「言(ことば)」は「私たちの間に宿られ」ますが、これは救いのみ子が安全地帯に来られたのではなく、飼い葉桶に生まれ、危険な荒れ野に天幕を張るような形で来臨することを暗示しています。事実、イエスさまは十字架にかけられるのです。

 

教会暦は、イエス・キリストの来臨の意味を考え、備え始める降誕前に変わりました。だからこそ、私たちはこの期節に、ヨハネによる福音書1章のみ言葉をかみ締めて味わうのです。end

 

 


2019年10月27日(日)・教会裏の富有柿
2019年10月27日(日)・教会裏の富有柿

◎先週(10月27日)の説教より 


      『 固い決意も必要なのです 』  
                    使徒言行録 11章19節~30節 
                                             森 言一郎牧師

 

直前まで描かれていたのはペトロによる伝道の様子でした。

 

ペトロはユダヤ北部の町・カイサリアでのローマの百人隊長・コルネリウスへの伝道の報告を、12弟子を中心にして成立していたエルサレムの教会で行いました。

 

しかしここからは、同じ異邦人伝道でも、その舞台も、伝道に関わるメンバーも変わります。福音が世界に広がり始める転換点です。

 

聖書巻末の地図で「パウロの宣教旅行」を開いてアンティオキアという都市の位置を確認しましょう。そこは明らかにユダヤ地方ではないことが分かります。エルサレムからは600㎞は北にある異邦の地です。

 

実はそこに、エルサレムの教会と全く個性も成り立ちも異なるキリスト教会が既に誕生していたのです。しかも、興味深いことに、アンティオキアでの伝道には12弟子たちは関わっていません。つまり、アンティオキアの教会関係者は、直接には、イエスさまを知らないということでもあります。

 

アンティオキアの教会の活況振りを確認するためにエルサレムから派遣されたのが、キプロス島生まれの慰めの子と呼ばれるバルナバでした。バルナバは恵みに満ちた教会の様子を大いに喜びます。

 

同時に、アンティオキアの教会の人びとに大切なことを命じました。その内容は「あなたたち自身を神さまへの供え物とする強い覚悟をもつように。そして、固い決意をもって、主から離れることのないように」というものでした。

 

続いてバルナバは、彼らの宣教を支えるために、故郷・タルソスに居た、のちの「パウロ」(ここでは「サウロ」)を捜しに出掛け、彼を連れて来て、二人三脚となり、アンティオキアの人々を勇気づけたのです。

 

この頃、馬鹿にされてもからかわれても、めげることなくイエスを主と信じて行く覚悟を決めた人たちに付けられたのが「クリスチャン」というあだ名でした。

 

信仰の道を生きている私たちは、しばしば揺れ動き、離れることがあった者であることを認めざるをえません。だからこそ、今日、ここから、揺るがぬ心をもって生きる覚悟を、しっかりと胸に抱きたいのです。end

 

 


2019年10月20日(日)礼拝後のマナの会を終えて会堂を外に出た頃の一枚です 手前下の軽トラは勝さん(^^♪
2019年10月20日(日)礼拝後のマナの会を終えて会堂を外に出た頃の一枚です 手前下の軽トラは勝さん(^^♪

◎先週(10月20日)の説教より
                『 逃げ出した人へ 』  
                   創世記46章28節~47章12節 
                                             森 言一郎 牧師

 

ここには、死んでしまったと思い込んでいた最愛の息子ヨセフと再会した父ヤコブが描かれます。エジプトの総理大臣になっていた息子ヨセフは、130歳になる父の首に倒れ込み、泣き続けました。劇的な再会です。

 

この時ヤコブは「私はもう死んでも良い」とまで口にします。しかしこれは「私は早く死にたい」という意味ではありません。ヤコブは残された人生、自分に出来る限りのことをなして行こうという決意を胸に抱いていたのです。

 

ヨセフはエジプト王ファラオのことを知り尽くしていました。そこで、一族が羊飼いとしてエジプトで安全で平和な暮らしを守ることが出来るように、ファラオと向き合った時の〈知恵〉を伝授します。エジプト人は羊飼いを厭(いと)うことをむしろ積極的に利用しなさい、という知恵でした。そのことゆえに、一族はゴシェンの地に安心して定住することが出来たのです。

 

そんな中、父ヤコブがエジプト王ファラオと向き合った場面に、見過ごしてはならない重要なことが示されています。それは小さな部族長に過ぎないヤコブが、当時の世界で正に最大の権力を手にしていたファラオを祝福する姿です。

 

『新共同訳』では「別れの挨拶をし」とありますが、これは単なる「挨拶」ではありません。『口語訳』や『新改訳2017』では明確に「祝福し」となっているのは偶然ではない。元々、ヤコブは父イサクと兄エサウを欺(あざむ)いて〈祝福〉を奪い取った上、母リベカの故郷に逃亡した過去を持つ人でした。

 

ところが、ヤコブは最晩年になって、ファラオの祝福に始まり、創世記48~49章では〈一族を祝福し続ける人〉として描かれているのです。このことは、聖書が告げている奥深い真理です。

 

裏切り、逃げ出した者を神さまは用いられる。ヨセフとの再会によって〈リバイバル(復活・再生)を経験したヤコブ〉は、父祖アブラハムに約束された祝福の基(もとい)としての使命を果たす人になっていったのです。

 

この恵みは、十文字平和教会の礼拝に集う〈土の器〉であり〈ひび割れ〉や〈欠け〉のある私たち一人ひとりに約束された〈祝福〉に他なりません。end

 

 


2019年10月6日(日)十文字平和教会の講壇 柿が見えます
2019年10月6日(日)十文字平和教会の講壇 柿が見えます

  ◇ 先週の説教より ◇

           2019/10/06

  『 ペトロの言葉に

      人々は静まった 』
         使徒言行録  11章1節~18節
                                      森 言一郎  牧師

 

12弟子の中でも筆頭格の「ペトロ」が伝道旅行に区切りを付けてエルサレムの初代キリスト教会の仲間たちの元に戻って来る場面です。ペトロがエルサレムに戻ってくる前に訪ねたのはローマと密接な関係のある地中海沿岸の都市カイサリアでした。

 

彼は異邦人であるコルネリウスという百人隊長と、その家族や部下たちに親しく迎えられます。さらに、彼ら異邦人が聖霊を受けた様子に触れ、洗礼を授けたのです。喜ばしい知らせを携えてエルサレムの教会に戻ってきたはずのペトロですが、ねぎらいの言葉はなくケチをつけられます。

 

エルサレムにある初代キリスト教会の人々はあることから自由になっていませんでした。それは違いを超えられないということであり、自分たちと異なることに対する否定的な生き方でした。

 

端的に申し上げるならば、ユダヤ人の徴である割礼を受けているか否かという問題です。ペトロは「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き一緒に食事をした」と非難されています。

 

これはイエスさまが罪人や徴税人たちと一緒に食事をしているのを批判していた、ファリサイ派や律法学者たちと変わらない言葉です。これが初代キリスト教会のお粗末な現実でした。

 

注意しなければならないことがあります。現代を生きる私たちキリスト者は、ここに描かれていることを他人事(ひとごと)とは言い切れない、という点です。

 

ペトロの言葉に人々が静まったのには理由(わけ)があります。彼は日本名にするなら「岩男」です。その名の通り頑固な所がある人でした。

 

ところがペトロ自身が、幻の中で「異邦人が食するものを自分は食べるわけにはいきません、等と言ってはならない。違いを受け入れる者として生きよ」という促しを受け、聖霊の導きによって変えられていきました。

 

「もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼・・・奴隷、自由人の差別はない」とコロサイ書3章にあります。人の言葉に惑わされることなく、神のみ旨を生きる者として、違いを尊び合うことが出来る教会でありたいと願います。end

 

 


教会花壇の「段菊」 2019年9月29日
教会花壇の「段菊」 2019年9月29日

   ◇ 先週の説教より ◇

             2019/09/29

              『 人生の目的を明確に 』
                          ルカによる福音書 14章7節~14節
                                                  森 言一郎  牧師

 

イエスさまは「婚宴」や「宴会」について突然語り始めたのではありません。前後の文脈から考えると、大事なことが浮かび上がって来ます。

 

少し前の13章18節以下の「からし種とパン種」の譬えにおいて「神の国とは・・・」ということが語られているのですが、そこでの鍵は〈小ささ〉なのです。

 

同じく13章22節以下の「狭い戸口」の話でも、東西南北の異邦人、つまり〈小さく、低くされている者〉の方が、「神の国」において最優先されるという大逆転が語られます。

 

聖書の小見出しに「教訓」という語がありました。まるで世渡り上手になるためのお言葉があるかのようですが、注意が必要です。

 

ここでの「婚宴・宴会」とは「神の国」のことです。「神の国」において重要なのは、前段からの繋がりで言うならば小ささや低さ、そして謙りなのです。「末席に」とありますが、英語の聖書では「低い席( lowest place)」と表現されます。

 

「神の国」に誰が、どのようにして入れるのかというと、そこでは「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」とイエスさまは言われるのです。

 

私たちの信仰生活において「神の国」はどこに見いだされるのでしょう。それは何より〈礼拝〉という場です。イエスさまはそこで〈弱さや貧しさ、不自由さを抱えている人〉と、どれほど本気になって生きようとするのかを問うておられるのです。

 

私の福岡時代の牧会経験を少しお話します。90歳過ぎの雅子さんは礼拝に来られると、いつも「わたしゃぁ、居(お)るだけの存在やけん」と言われていたことを思い起こします。

 

雅子さんの葬儀の時に気付かされたことですが、雅子さんという、お歳を重ね出来ることも次第に少なくなり、小さくなっていった存在こそが、教会を教会たらしめていたことを知らされたのです。

 

神さまは私たちの小ささを重んじられます。

 

主のみ心を知り、主の僕(しもべ)としてその使命を生き抜くことを人生の目的とする時に、私たちはどんなに小さな者であっても、必ずや生きていく希望が与えられます。end

 

 


2019/09/22の講壇にて森牧師。この日の森牧師、説教原稿を牧師館に忘れてきておりました。大丈夫だったのかな?
2019/09/22の講壇にて森牧師。この日の森牧師、説教原稿を牧師館に忘れてきておりました。大丈夫だったのかな?

  ◇先週の説教より◇

         ☆2019/9/22
             『 家族復活への道 』 
                     創世記 45章14節~46章7節 
                                             森 言一郎 牧師

 

激しい飢饉ゆえに、再びエジプトにやって来たヤコブの息子たち。彼らは劇的な形で総理大臣となっていたヨセフと再会します。

 

エジプトでの暮らしの保証まで受けた彼らですが、ヨセフから「途中で、争わないでください」と言われました。ここには深い意味があります。

 

10人の兄たちは、ヨセフに対する妬みゆえに弟を殺そうとしたこと、エジプトに向かう隊商にヨセフを売り飛ばしたことなども含め、父ヤコブに嘘をつき続けてきたうしろめたさがありました。罪のなすり合いに歯止めを掛ける言葉が「途中で、争わないでください」でした。

 

130歳になる父によい知らせを携(たずさ)えて行く旅路であるはずなのに、彼らは沈痛な面持ちでカナンに向かったのです。

 

この場面。〈罪〉の問題が分かりやすく記されているわけではありません。しかし、〈罪〉の問題と真っ正面から向き合うことを抜きにして、私たちの道は開かれないことを聖書は教えてくれるのです。

 

息子たちは父に「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」と報告します。

 

ヤコブも人間です。今さらそんなことを、どう信じればよいのか、表情は固まりました。しかしヤコブは、結果的には息子たちにその罪の内容の逐一を語らせませんでした。

 

むしろ父は息子たちを赦そうとして忍耐しているのです。ここでヤコブは「元気を取り戻した」とあります。この語の元来の意味は「リバイブした」「覚醒する」というものです。

 

ゆるした父には、新しい命の息が吹き込まれています。これは〈ヤコブの復活〉にとどまらず〈家族の復活〉の時でした。ここには家族が新しいものとして生きていくための〈悔い改め〉の出来事が示されているのです。

 

旧約聖書の中にはイエスさまのお姿が不思議な形で浮かび上がって来ることがあります。主イエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1:15)と。

 

私たちが復活の命を生きるためにも、きょう、この物語の中に自分自身の姿を見いだしましょう。イエスさまのみ声を聴く導きが示されているのです。end

 

 


文中の絵本『たいせつなきみ』を開いて説教する森牧師 2019年9月15日
文中の絵本『たいせつなきみ』を開いて説教する森牧師 2019年9月15日

   ◇先週の説教より◇

           ☆2019/9/15

『 昔話ではない 安息日(び)の出来事 』

             ルカによる福音書 13章10~21節

                                          森 言一郎 牧師

 

〈安息日(び)〉の会堂で、イエスさまは18年間もの間、腰を伸ばすことが出来なかった婦人を癒されます。

 

ところが、会堂長はイエスさまに悪態をつきます。いいえ、彼の立場からすれば、自分たちの人生の土台となっている〈律法〉に基づく正当性を確信をもって語っているだけなのです。

 

会堂長は言いました。「働くべき日は六日ある。その間(あいだ)に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と。

 

この場面を読む際の鍵は冒頭の「安息日に、イエスは会堂で・・・」という言葉です。

 

〈安息日〉の聖書的な原点は天地創造の終わりにあります。創世記2章の冒頭に〈神さまご自身の安息〉の様子が記されており、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさった・・・」とあるのです。

 

神さまは全てを完成された時にこう言われます。「見よ、それは極めて良かった(*英語では「it was very good.」)」と。

 

万物をお創(つく)りになった神さまは、その作品の一つとして、ここに集められた私たちも創られました。自力では回復が不可能な状態になってしまった人間、罪の縄目に絡みついてしまって身動き出来ない者を、創造の主は、見捨てるようなお方ではありません。責任をもって、解放、救い、癒しのために働かれます。

 

私の最愛の絵本に『たいせつなきみ』(原題『 You(ユー) Are(アー) Special(スペシャル) 』があります。傷だらけになった木彫りの人形・パンチネロ。彼は丘の上の家に暮らす木彫り人形造り職人のエリを訪ねた時にこう語りかけられます。

 

「毎日お前が ここへ来てくれることを願って 待っていたんだよ」と。

 

きょうは日曜日。神さまは私たちが丘の上の教会に集うことを待っておられました。私たちがここで新しくされる日なのです。

 

同時に、主イエスは、たとえ何曜日であろうとも、私たちが丘の上の教会に帰ってくるのを待っておられることを思い起こしましょう。お言葉を下さり、手当をなさる。それが私たちの救いであり、これから先の変わることのない希望なのです。end

 

 


満さんの「2001~2019」画集が発行されました 本当に美しい本というのか、まさに画集です。筆を手にしない日はあり得ない、という言葉をお聴きしたことがあります。
満さんの「2001~2019」画集が発行されました 本当に美しい本というのか、まさに画集です。筆を手にしない日はあり得ない、という言葉をお聴きしたことがあります。

   ◇先週の説教より◇  ☆2019/9/1
             使徒言行録 10章23~48節より
  『 コルネリウスによって始まったこと 』
                 森 言一郎 牧師

コルネリウスの誠実な姿は私たちに大切な事を教えてくれます。カイサリアに駐在する〈百人隊長〉と言えば、エルサレムや他の町で務めを果たしている百人隊長に比べ、相当に重い責任が与えられていたはずです。

 

カイサリアは、地中海を渡ってローマに向かうのに一直線の所に位置し、ローマ皇帝と非常に近い関係にあったのです。

 

コルネリウスの生活振りは10章2節で「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」と紹介されています。

 

しかし、どんなに「信仰心あつく」とも、彼らはエルサレム神殿で異邦人の庭までしか入れません。7章後半でフィリポによって洗礼を受けたエチオピア人の宦官と同じです。

 

そのようなコルネリウスを用いて、神さまは異邦人への福音の伸展の道を示されます。忘れてはならないのは、今、ここで礼拝を捧げる私たちもその異邦人に含まれていることです。とりわけペトロは、コルネリウスとの出会いを通じて、彼の目に貼りついていた偏見や先入観という鱗が落とされて行きます。幼い頃から教え込まれた考え方からどうしても自由になれないのがペトロでした。

 

ペトロは、コルネリウスの言葉を聴きながら、ある意味率直に、自分の信仰の狭さを口にしているのです。それは「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」という言葉から分かります。

 

これは、「異邦人は汚れており、神さまは自分たちユダヤ人と異邦人を区別されていると信じてきました」と認めているに等しいのです。ペトロの説教はここから変わります。旧約聖書に基づかない福音を語る。それは異邦人への伝道の為でした。

 

ペトロはコルネリウスら異邦人に聖霊が降るのを見て驚きます。聖霊が下ったことが切っ掛けで洗礼を授けることが出来たのです。聖霊はペトロの頑なさを打ち破りますし、異邦人伝道の扉を開く鍵でした。

 

私たちは、罪を認め「イエスを救い主と信じます」と告白されるどなたとも、同じ人間です。私たちこそ、先入観や思い込みから解放される必要があります。end

 

 


2019年8月中旬 十文字平和教会から車で15分 ぶどう園にて
2019年8月中旬 十文字平和教会から車で15分 ぶどう園にて

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/8/25
     ルカによる福音書 10章25~42節より
      「 イエスの愛を生きるために 」
          森 言一郎 牧師

イエスさまの時代、ユダヤ人はサマリア人を忌み嫌いました。

 

私たちにもっとも馴染があるのはヨハネ福音書4章の「サマリアの女」とイエスさまとの出会いの物語です。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」という女の言葉が当時のユダヤ人とサマリア人の関係を端的にあらわします。

 

なぜ、彼らはこのような対立感情を抱くようになったのでしょう。

 

サマリアは、ダビデ・ソロモンと続いた統一王国の分裂後、オムリ王によって設立された北王国イスラエルの難攻不落の首都でした。強大な国アッシリアによって侵略されたサマリアは、異邦人との混交・混血が政略として進みます。

 

そのことが複雑に絡み合い、イエスさまの時代、純潔を重んじるユダヤ人は異邦人以上に「サマリア人」を嫌悪したのです。サマリア人はモーセ五書を重んじる人々でしたが、エルサレム神殿での礼拝がゆるされず独自の祭壇を築かざるを得なくなり、正統派のユダヤ人にとって「サマリア」という言葉は聞きたくも見たくもないものとなっていました。

 

主イエスによって語られた「善きサマリア人の譬え話」において、強盗に襲われた旅人を助けたのは律法に精通した祭司でもレビ人でもなくサマリア人でした。これは「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来ますか」と尋ねた律法学者にとって受け入れがたい内容でした。

 

しかしイエスさまは、福音があまねく宣べ伝えられるためには、元を辿(たど)れば同胞であるサマリア人との関係を抜きにすることなどあり得ないと教えられるのです。

 

私たちが、イエスさまと一体化された善きサマリア人のように行動することは事実上不可能です。むしろ、私たちがここから学ぶべきことは、自ら助けを呼ぶことも出来なかった傷ついた旅人こそ、実は、私自身であったのだということなのです。

 

このサマリア人はイエスであるがゆえに、深い憐れみをもって近づき、これでもかという程に倒れ人を介抱をして下さいます。そして、「再び来ますから」と約束して下さっているのです。end

 

 


教会ロッジ斜面の芙蓉   2019/8/18
教会ロッジ斜面の芙蓉 2019/8/18

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/8/18
                  創世記 45章1~15節より
          「 神のなさる時を知る 」
             森 言一郎 牧師

 

20年程前に弟ヨセフを見捨てた兄たち。父ヤコブに血まみれの服を見せて、ヨセフを死んだ者としてしまった兄たち。彼らは、目の前に立っているエジプトの総理大臣閣下が、弟ヨセフであることに全く気付きません。

 

「なんだか雰囲気がヨセフに似ているが、他人の空似。不思議なことは時に起こるもの」と思っても、それ以上、考えることをしなかったのです。

 

そもそも彼らは、弟捜しのためではなく、生き延びるために食糧を求めてエジプトにやって来ました。相当に年老いた父のためにも、その目的の達成は絶対に必要なことだったのです。

 

                                   **************

 

異変に気付いたのは、総理大臣閣下が「すべての者を退出させよ」と厳しい表情で命じた時でした。残されたのは自分たちだけ。明らかに様子が変です。このお方は何をなさろうというのか緊張が高まります。彼らは、自身の心臓の音が聞こえるのを感じていたことでしょう。

 

その時、目の前の総理大臣閣下の口から発せられた言葉は「アニー ヨセフ」=「わたしはヨセフ」というヘブライ語でした。エジプト語ではなく、彼らの母国語・ヘブライ語が発せられただけでも驚きですが、目の前の人がヨセフだとわかったこの瞬間、誰が喜ぶことが出来たでしょう。否なのです。

 

続いて、父のことを目の前の閣下は尋ねたのです。「父上はまだ生きておいでですか」と。突如として目の前の暗雲は消え、点と点が結び付き、輪郭が浮かび上がってきた瞬間でした。耐え続けていたヨセフはついに泣き崩れるのです。

 

                                             **************

 

人生には様々な時があります。沼本兄の告別式で読んだコヘレトの言葉3章が脳裏に浮かびます。人生に「時」ありなのです。そして、ヨセフの物語を導くのは、人知を越えた救いを示される神であることを知りましょう。

 

イザヤ書55章8節以下「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。・・・・・・わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」が聞こえて来ます。

 

家族の、人と人との、人と神との和解の物語がここにあります。これこそ、今を生きる私たちに必要な物語なのです。end

 

 


2019年8月4日 教会の花壇に咲くグラジオラス
2019年8月4日 教会の花壇に咲くグラジオラス

        ◇先週の説教より◇  ☆2019/8/4
    使徒言行録 10章1~33節より
    「 ペトロが見た幻とコルネリウス 」
             森 言一郎 牧師

聖霊行伝とも呼ばれる使徒言行録の最重要テーマ。それは〈異邦人伝道〉です。2章の聖霊降臨の出来事の場面で聞こえて来た多くの〈外国語〉は、当時の全世界を意味するものでした。

 

聖霊降臨の後、フィリポはユダヤ人が忌み嫌ったサマリア地方に福音を宣べ伝えました。さらにフィリポは、エチオピアの宦官にも手を差し伸べ、福音を解き明かしたことが記録されています。それも異邦人伝道だったのです。

 

10章からは、ペトロが本格的な異邦人伝道を始めることになります。しかし、ペトロにはまだ足りないことがありました。ヤッファの革なめし職人シモンの家でお昼の祈りを捧げるために屋上に上がったペトロは、自分で自分をコントロール出来ない〈忘我(ぼうが)状態〉に陥ります。

 

そんな彼の目の前に大きな布がフワフワと飛んできて、「これを屠(ほふ)って食べよ」という声が聞こえます。その布に乗っていた食べ物は、ユダヤ人が食することが出来ないものばかりだったのです。

 

聖書はこの時のペトロが、何を食べたのか、食べなかったのかについて何の関心も示しません。なぜなら、食べ物のことはここでは問題ではないからです。

 

食べ物のことを伝えているようでありながら、ペトロの所にやって来る異邦人であるイタリア隊の隊長コルネリウスの使いを先ずは受け入れることが出来るようにする準備が始まっていたのです。

 

ルカによる福音書5章で「今からのち、あなたは人間をとる漁師になる」という召し出しの言葉を受けたペトロでしたが、ペトロに代表される初代キリスト教会には、まだ、異邦人との間にある壁を乗り越える信仰がありませんでした。

 

教会では「ここはあなたが来るような場所ではない。迷惑ですよ」というようなことがあってはならない。そのように頭では理解できますが、私たちには打ち砕かれなければならない罪深さが、いつもつきまとう現実があります。

 

神のみ心は、異文化の中に生きる異民族、異教徒、異邦人への伝道でした。人間には様々な違いがありますが誰もが神さまの最高の作品なのです。その違いを乗り越えるために与えられているのが聖霊でした。

 

ペトロは、異邦人コルネリウスからの使いを迎え入れ泊まらせました。end

 

 

 


2019年7月末 十文字平和教会礼拝堂の絵の一枚
2019年7月末 十文字平和教会礼拝堂の絵の一枚

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/7/28
                  創世記 44章1~34節より
      「 愛の神 罪をどうなさるのか 」
             森 言一郎 牧師
             
ヨセフが“銀の杯(さかずき)”を同じ母親ラケルから生まれた最愛の弟ベニヤミンの荷物の中に潜ませるように命じたところから、物語は大きく展開し始めます。

 

特に注目したいのは、ヤコブの四男ユダの「神が僕(しもべ)どもの罪を暴(あば)かれた」という言葉です。この言葉の背後にあるユダの思いを見過ごしには出来ません。ユダは父ヤコブに対して「ベニヤミンのことは私が命がけで守ります」と言ってエジプトに連れて来た張本人でもあります。だからこそ責任を感じていたことでしょう。

 

しかしそれ以上に、思い起こす必要がある出来事が彼にはありました。他の兄弟たちが全く知らないことです。それは、新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書1章の「イエス・キリストの系図」に関わることです。

 

そこには、創世記38章に記録されている、ユダがその嫁タマルを通して犯した罪が明記されているのです。系図には、ユダ以外の兄弟たちの名前は一切記されていません。ユダの罪は、救い主の誕生に欠かせない出来事なのです。

 

創世記44章で、目の前に居るのが弟ヨセフだと気付かずに語り続けるユダは、己の罪に対して、神が徹底して自分を取り扱われていることをハッキリと感じていました。そこから逃れられないことを悟ったのが、「神が僕(しもべ)どもの罪を暴かれた」という告白でした。そう告白することができたのは、神の摂理だからです。

 

ヨハネ福音書8章に姦淫の罪を犯した女性が神殿の境内に居られたイエスの前に引きずり出される物語があります。

 

イエスさまは「女に罪がない」とは言われません。罪を認めておられる。一人また一人と立ち去る中、最後まで残った彼女も、自分自身の罪を深く自覚していました。しかし、そこには裁きはありませんでした。

 

罪が露わにされることは救いに至るのに不可欠なことなのです。罪が露わにされないままであることの方が恐ろしい。なぜなら、その罪を十字架の上で負って下さり、裁きを身に受けるために世に来られたのがイエスだからです。その死と復活に神の愛が示されている。

 

創世記44章は、罪人であることを認めざるを得ない私たちが生きていく上で欠かすことの出来ない〈我らの救いの物語〉なのです。end

 

 


花壇に咲くモントブレチアの花 2019年7月21日(日)の午後
花壇に咲くモントブレチアの花 2019年7月21日(日)の午後

  ◇先週の説教より◇  ☆2019/7/21
         ルカによる福音書 15章1~10節より
           「 もしも私が忘れても 」
             森 言一郎 牧師

 

ここでイエスさまは、「徴税人と罪人」「ファリサイ派と律法学者」、そして「弟子たち」が耳を傾ける中、二つの譬え話をされます。その結論は共通しているのです。

 

それは「亡くなったものを捜しだしたら、一緒に喜んでほしい」というものです。新共同訳では、「見失った」「無くなった」という言葉が使われますが、永井直治先生が訳された聖書は、一貫して「亡くなる」という語を用います

 

この訳語は原文に忠実で適切なものです。生きているようでありながら、死んでしまっている者を神は救い出して下さる。そのような神の愛が、ここでの主題だからです。

 

動けなくなった一匹の羊を捜し出すため荒野に99匹を残し、自らが傷つくことも恐れず、血を流しながらでも危険な場所に進んで下さるお方がここに居られます。

 

また、本来銀貨は自らの力で動き出すわけがないですし人格など無いのです。けれどもイエスさまは、断固たる決意でその一枚にあたる一人の人間を捜して下さる。さらに銀貨に譬えられる者が、結果的に、悔い改めることが出来るようになる道をご一緒されるのです。

 

北九州でホームレス支援の働きに長年仕え続けている奥田知志(おくた ともし)牧師の著書、『もう、ひとりにさせない ~わが父の家にはすみか多し~』の中に、こんな一節があります。

 

「現在の教会に赴任した時、大石さんという女性がおられた。寄る年波で物覚えが極端に難しくなり、ある日、大石さんが献金の祈りに立たれた。・・・・・・「神様、実は私は最近どうも物忘れをしているようです。みなさんのご迷惑になっていないか、とても心配です。」「神様、このままだと私はいつか神さまのことも忘れてしまうのではないかと、とても不安になります。」深刻な祈りの言葉に礼拝堂は静まりかえった。

 

・・・・・・しかし、大石さんは最後に絞りだすように、こう付け加えられたのだ。「しかし、神様。もし私があなたのことを忘れても、あなたは決して私のことをお忘れになりません。だから私は生きていけます」と。

 

大石さんは、どんな時でも、どこまでも捜しに来てくださるキリストを信じている。

 

私たちが、きょう、出会っているのは、正に、そのようなイエスさまなのです。end

 

 


花壇に咲くブッドレアの花・2019年7月7日
花壇に咲くブッドレアの花・2019年7月7日

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/7/7
      ルカによる福音書 8章40~56節より
      「 キリストの前に進む勇気を 」
             森 言一郎 牧師

 

群衆の中、二人の人が特別な思いをもって主イエスに近づいて行きます。

 

最初に進み出たのはヤイロでした。広く知られる会堂長で、熱心な信仰者であり地域の顔役です。その彼がイエスの前にひれ伏し「12歳の娘を助けてください」と懇願する。スキャンダルでした。当時のイエスはヤイロら会堂長の立場からすると危険人物以外の何ものでもなかったからです。

 

そこへ、もう一人の人が意を決してイエスに近づいて行きます。実はヤイロの姿は彼女を結果として励まします。12年もの間出血が続き、癒しを求めて医者を捜し歩いたけれどどうにもならず「所帯を全く費(つい)やした」(永井直治訳)女性です。穢(けが)れを宣言されているこの人は、イエスさまに面と向かって何かをお願いする勇気はありません。群衆に紛れ、後(うしろ)からそっと近づき、衣の房に触れただけでした。

 

すると、出血が続いていた身体(からだ)に変化を感じ取ります。いいえ、ことはそれだけでは終わらなかった。イエスは女と真正面から向き合うことを求められたのです。

 

逃げてはならない、ということを自覚した女はイエスさまの前に進み出てひれ伏します。そして、ここに到るまでの一切を告白しました。これこそ、女に出来る全てでした。

 

〈身体の癒し=(イコール)救い〉ではありません。イエスさまは宣言されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

 

ヤイロはこの一部始終を見守りました。じりじりしながら待つしかなかった。そうこうするうちに「娘さんはもう亡くなりました」との知らせが届いてしまった。ところがです。イエスさまはヤイロに告げました。「ただ、信ぜよ。そうすれば、娘は救われる」と。

 

ヤイロはこの主のお言葉を100%信じていたわけではありません。我が子が目の前で立ち上がった時、妻と共に驚愕(きょうがく)したのです。信頼しきっていなかった。

 

私は思います。

 

彼は時の経過の中で、娘の癒し以上に、あの日、救いの宣言を受けた女のことが深く心に刻まれていったのだろうと。

 

私たちは聖書の学びやイエスを知ることだけでは救われません。求められるのは、ただ主イエスに寄りすがる〈信〉なのです。この日の礼拝でも、その心が何より必要とされています。end

 

 


    ◇先週の説教より◇  ☆2019/6/30
            使徒言行録 9章26節~43節より
      「 ペトロに重なって見えるもの 」
             森 言一郎 牧師

 

「パウロの回心」に続いて始まるペトロの物語の見出しを、「ペトロの回心」としている聖書(本田哲郎訳・『小さくされた者たちの言行録』・新世社)があることを知り、大いに勇気づけられ教えられました。

 

こんな見出しをつけている聖書は他にはありません。ペトロはなお新しい人になっていく必要がある人なのです。

 

この事実に心を向けながら使徒言行録を読み進めますと、目から鱗が落ちるように聖書の使信が浮かび上がってきます。

 

回心したサウロのエルサレムでの伝道の姿に触れたペトロ。彼は大いに刺激を受け発奮します。漁師出身のペトロは、知的な面や律法の学びという点でサウロにはとてもかないません。

 

しかし、12弟子の中でも筆頭の自負を抱いていたペトロは、「ならば、ワシはイエスさまから直々に教えて頂いたことを、実直にやって行くしかない」という決意を固めたと私は想像するのです。

 

リダやヤッファという地で、まるでペトロはイエスさまが乗り移ったかのように力強い癒しの業をなしているように見えますが、この箇所の主題はペトロを賛美することではありません。

 

初代のキリスト教会が心を向けていくべき方向は、罪人の烙印を押された病人であり、孤児や寄留者と同じように大切にされるべき〈やもめたち〉であることがここで明らかにされているのです。

 

中風の人が癒されること。さらに、女の弟子タビタを頼りにしていた〈やもめたち〉が泣き崩れる中、ペトロがタビタに手を差し伸べて甦らせることも、神の必然の出来事でした。

 

さらに注目すべきは、ペトロがヤッファの海辺の家に暮らす革なめし職人シモンの所に長く留まっていたことです。ペトロは、動物の皮を剥ぎながら、血と悪臭にまみれながら過ごしていたことが9章の最後に明確な意図をもって記録されているのです。

 

当時、革なめしの仕事は、社会の底辺に生きる人々の仕事でした。ペトロは、ヤッファの中でも端っこで暮らしていた人たちの所に「住んだ」(永井直治訳)ことで、主イエス・キリストの福音が届けられるべき場を肌で知ることになったのです。

 

十文字平和教会が進むべき道も、このペトロの姿に重なって浮かび上がって来ます。end

 

 


2019年6月23日・教会の庭のガイラルディアの花です
2019年6月23日・教会の庭のガイラルディアの花です

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/6/23
                創世記 43章1節~34節より
      「 シャローム 挨拶の回復へ 」
           森 言一郎 牧師

 

創世記42章~43章には実に不思議な形で「天国」への扉が備えられています。

 

ここでは42章34節で、ヨセフが「末の弟を必ず連れて来るのだ。そうすればお前たちが・・・正直な人間であることが分かるから・・・自由に〈この国〉に出入りできるようにしてやろうと言った」と書かれている箇所を心に留めてみます。

 

〈この国〉を〈天国〉に置き換えると、この物語は遠い昔の出来事ではなくなって来るのです。ヤコブの息子たちは、いかにして〈その国〉に自由に出入りすることが出来るようになるのでしょう。

 

ヨセフと10人の兄たちは「シャローム=平和・平安」を失っていました。ヨセフ物語が始まる37章には「穏やか=シャローム」に話が出来ない彼らの様子がありました。

 

兄たちに殺され掛かったヨセフはエジプトに向かう隊商たちによって命拾いしますが、血まみれになったヨセフの上着を父に見せた兄たちは嘘の報告をしたのです。ヨセフは死んだ者になってしまいました。兄たちもヨセフがその後どうなったか知らないままです。

 

創世記43章では、激しい飢饉が続く中、再びエジプトで食糧を得るしか道がなくなった兄たちが、末の弟ベニヤミンを連れて二度目のエジプト入りをします。

 

すると、前回のスパイ扱いとは全く異なる形で歓待を受けるのです。兄たちは怪しみましたが、総理大臣閣下(実はヨセフですが)の特別なる配慮の元、ねんごろに取り扱われ、いつしか緊張が解け始めるのです。

 

やがて、兄弟たちに向き合ったヨセフから「あなたがたの年をとった父上はシャローム=元気か」と問われます。すると「あなたさまの僕(しもべ)である父はシャローム=元気です」と答える場面が続くのです。

 

さらに、酒に酔っ払う程に和(なご)んだ彼らは、いつしか穏やかな心で食卓を囲んでいました。これは天国の食卓のひな型なのです。ここには私たちも無視できない家族の〈和解の問題〉があります。

 

否、それ以上に、天国に安心して行くために、真に正直者になるためには何が必要なのかが教えられているのです。ヨセフも人の子です。彼の采配によってシャロームが見え始めたのではありません。人知を越えた「神の配剤=摂理」こそが一切を導いています。end

 

 

 


2019年6月16日(日)三位一体主日の講壇 講壇掛けと献花(立葵)のコラボレーション!
2019年6月16日(日)三位一体主日の講壇 講壇掛けと献花(立葵)のコラボレーション!

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/6/16
    ヨハネ福音書 14章15節~26節より
    「 約束の聖霊 その恵みに生きる 」
         森 言一郎 牧師

 

ペンテコステ・聖霊の降臨を迎えた私たち。今日は「聖霊」について学ぶため、イエスさまが弟子たちに〈告別説教〉をされたヨハネ福音書14章26節の言葉に注目します。

 

ここには「弁護者、すなわち、聖霊が、全てのことを教え」とあります。特に思いを深めたいのは「弁護者」という言葉です。「弁護者」とは「聖霊」なのですが、私たちは誰一人として実際に「弁護者」を求める祈りを捧げたことはないはずです。

 

聖餐式を執り行うとき、私は、両手を広げて聖霊を求める祈りを捧げます。しかし「慰め主なる聖霊よ来て下さい。あなたの息を、風を、十文字平和教会に送って下さい」と祈ることがあっても、「弁護者を・・・・・・」と祈ったことはありません。

 

ヨハネは福音書を記すに当たり、ギリシア語の「パラクレートス」という言葉を用いました。日本語に訳される場合「慰め主」「助け主」という場合が多いのですが、それが新共同訳の「弁護者」です。

 

今回私は幾つかの英語の聖書を開いてみました。「ヘルパー」「カウンセラー」という訳が先ず目に入ります。さらにもう一つ「コンフォーター」という訳もありました。「コンフォーター」という言葉を英語の辞書を調べてみると「慰める人、掛けぶとん、赤ん坊用のゴム製乳首、おしゃぶり」等の意味があることを知りました。「聖霊」の働きをとても身近に、人格のあるものとして考えることが出来ます。

 

私たちは「約束の聖霊」の力をどのように用いて行けばよいのでしょう。しっかりと立ち止まり、考えてみることが必要です。

 

なぜなら、復活の主イエスは同じヨハネ福音書20章で「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」というお言葉を語られた後に、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われて息を吹きかけられたからです。

 

さらに、ペンテコステの出来事は、使徒言行録2章において明らかなように、弟子たちの舌に火がついて、神さまの恵みのみ業を証しするために起こりました。

 

約束の聖霊を受けた私たちのつとめ。それは、救いの福音、喜びの福音、慰めの福音、赦しの福音を証し、伝道するためのものに他なりません。end

 

 


2019年6月2日 復活節最後の日曜日の献花より 君枝さんの祈りと共に
2019年6月2日 復活節最後の日曜日の献花より 君枝さんの祈りと共に

        ◇先週の説教より◇  ☆2019/6/2
        使徒言行録 9章17節~31節より
         「 新しくなった人 パウロ 」
             森 言一郎 牧師

少し大袈裟かも知れませんが、ここでの〈サウロ〉、〈後のパウロ〉がいなければ、今、牧師をしている私は存在しなかったと思うことがあるのです。

 

なぜならば、初期キリスト教の迫害者だった彼は、数え切れないほど多くの人に助けられて伝道者として用いられていった人だからです。

 

ダマスコに向かう途中で、突然、天からの主の声を聞いて地面に倒れたサウロ。起き上がったあと、彼は一人で歩けません。〈人々〉に手を引いてもらって歩き出します。目が見えなくなったサウロが身を寄せたのは〈ユダの家〉でした。〈ユダ〉がどんな人なのかは全く分かりません。サウロはこれまで経験したこともない、目が見えない中でも助けてもらったのです。

 

そこに姿を現したのが、前回、使徒言行録を読んだ時に学んだ〈アナニア〉でした。彼は〈パウロ〉の助産婦役を果たした人でした。

 

パウロ自身が記したガラテヤ書には、使徒言行録9章とピタリと重なる頃の事が記録されています。1章にはサウロがダマスコからアラビアに3年間身を隠していたとあります。アラビアでも〈誰かが〉彼を助けてくれたのです。ダマスコに戻って来たサウロは命からがら〈弟子たち〉の手を借りて城壁づたいに逃げ出し、12弟子が中心となっていたエルサレムの教会に向かうのです。

 

ところが、サウロはそこでも使徒言行録4章の終わりに姿を見せる〈バルナバ〉に取りもってもらわなければ、実は使徒たちと話も出来ませんでした。サウロは周囲の人から信じられていなかったし怪しまれました。

 

エルサレムでも暗殺計画が彼の耳に入るようになり、今度は〈心配した使徒たち〉がサウロを連れて海辺の町・カイサリアに向かい、船で故郷タルソスに送り返したのです。後に、使徒言行録11章でわざわざタルソスまでサウロを探しに来てくれたのが先程の〈バルナバ〉です。

 

〈サウロ〉は一体どれだけの人に助けられて伝道者としての〈パウロ〉になっていったのか。彼の信仰の篤(あつ)さゆえなのでしょうか。否、決してそんなことはないのです。〈私たち〉が今ここにいるのは何故(なにゆえ)でしょうか。end

 

 


2019年5月26日(日)の礼拝にて 冷房のエアコンが必要な季節になりました。帯広では39℃近かったとニュースで。シャクヤクが美しいです。
2019年5月26日(日)の礼拝にて 冷房のエアコンが必要な季節になりました。帯広では39℃近かったとニュースで。シャクヤクが美しいです。

 ◇先週の説教より◇  ☆2019/5/26
         創世記 42章1節~38節より
        「 どうしても 必要なこと 」
         森 言一郎 牧師

 

父ヤコブから「お前たちは、いつまでお前たちは愚図愚図しているのだ」と促され、10人の息子たちは重い足を引きずるようにしてエジプトに向かいます。

 

その背景はこうです。彼らにとってエジプトと聞くだけでも思い出したくない事実がありました。妬ましい11番目の弟ヨセフを殺そうとしたものの、生き延びたことを知った兄たちは、エジプトに向かう隊商にヨセフを奴隷として売り払った過去がありました。しかも父親には偽りの報告をし、ヨセフは既に死んでいると伝えていたことに結び付くのです。

 

神の摂理の元でファラオに認められ宰相となったヨセフは、目の前で10人の男たちがひれ伏した時、直ぐに兄たちだと気付きます。実はこの場面を読む際に、しっかりと踏まえておきたいことがあります。それは言葉の問題です。ここには通訳が立ち会っていて、ヨセフは一見するとエジプト語しか分からないように振る舞っていますが、ヨセフの母国語・ヘブライ語でひそひそ話をする兄たちの話し声の全てを理解できたのです。

 

ヨセフが兄たちに問いかけたことに対する答えの中に「私どもは正直者です。・・・もう一人の弟は失いました」というものがありました。この言葉は「死んだ」と言っているのに等しいのです。ヨセフは彼らの嘘を知っています。そして伝えたのです。「私は神を畏れる者だ」と。これは、私をここまで導き養って下さっている神がご存知ないことなどない、という告白でした。

 

ヨセフは兄たちから離れ涙します。ヨセフが泣いたのは、兄たちがその愚かさに気付き、互いに黙っていられなくなり、自分たちの罪を言葉にし始めた時でした。彼らは一旦、父の元に食料をもって帰りますが、父には自分達の愚かしい行動、心の痛みを話すことが出来ませんでした。

 

涙する一人のお方を思い起こします。いいえ、涙にとどまらない。究極的には血を流し、いのちを投げ出されるお方、主イエス・キリストです。私たちにとっての幸い、そして救いとは、実は罪を告白することが出来ることなのです。旧新約を貫く神さまのご計画を告げる物語は続きます。end


2019年5月19日・講壇献花 君枝さんによります 何と黄色のお花は「春菊」だそうです(^^♪
2019年5月19日・講壇献花 君枝さんによります 何と黄色のお花は「春菊」だそうです(^^♪

◇先週の説教より◇  ☆2019/5/19
    使徒言行録 9章1節~20節より
        「 アナニア、サウロ、そして私 」
             森 言一郎 牧師

 

アナニア。彼は使徒言行録22章12節以下のパウロの回心(かいしん)が語られた説教によると、ダマスコに暮らす、律法に従って忠実に生きる熱心なユダヤ教徒として評判の人物でした。

 

けれども、イエスを救い主と信じるようになったアナニアは、ユダヤ人からすると、もはや裁かれるべき裏切り者に過ぎません。

 

したがって、サウロを筆頭とするキリスト教徒迫害に息を弾ませる者たちに命を狙われる立場にありました。アナニアはエルサレムで大暴れしていたサウロらが、ダマスコに近づいている情報も知っています。

 

ところが、幻の中に顕(あらわ)れた復活の主は、アナニアに対して「直線通りのユダの家に居るサウロを訪ねよ。彼はあなたが来て手を置いて祈ってくれるのを待っている・・・」と言うではありませんか

 

文語訳聖書では「視(み)よ、彼は祈りをるなり」とあります。実はこれが原文に忠実な訳です。つまりこれは「アナニアよ、サウロに出会え」という命令でした。アナニアに躊躇する気持ちがなかったはずがありません。

 

そんな彼が「視(み)よ、サウロは祈りをるなり」という主のお言葉を聞いてしまったのです。

 

サウロが待つ部屋に入ったアナニアは「兄弟サウル」と呼びかけました。私はこのひと言が全てだったと思います。これを語らせたのは神さまなのです。これによって全てが氷解した。サウロの目に貼りついていた〈鱗(うろこ)(「scales(スケールズ)=物差し」)のようなもの〉がポロリと落ちたのは〈神のみ業〉でした。アナニアは〈使徒パウロ〉誕生のために助産婦の役を果たす人となったのです。

 

その後のアナニアは、ことある毎(ごと)に、福音の使徒として働くパウロのことを耳にしていたはずです。目から鱗が落ちたのはサウロだけではない。主のみ声に従い立ち上がったアナニアもまた然(しか)りでした。さて、あなたは。end

 

 

 


2019年5月5日(日)夕 教会玄関よこの「つるばら」が見事でした
2019年5月5日(日)夕 教会玄関よこの「つるばら」が見事でした

◇先週の説教より◇  ☆2019/5/5
    ルカ福音書 24章36節~49節より
         「 心の目が開かれたなら 」
             森 言一郎 牧師

 

「あなたがたに平和があるように」。これは、復活の主が弟子たちに顕(あらわ)れた時に語られたお言葉です。

 

イエスさまはガリラヤ訛(なまり)の言葉を使っていたはずですが、実際にそのような想像力をもって福音書を翻訳されたのが、カトリックの一信徒である山浦玄嗣(はるつぐ)さんによる『ガリラヤのイエシュー』です。

 

この場面、イエスさまが実に表情豊かなお方としてお出でになったことを《ト書き》のような形で表現されています。[朗らかに]と括弧を付け、「やい、友よ、心静(こゴろしず)がにな!」と訳されるのです。恐れに畏れた弟子たちに、傷ついた手足を見せられた時も[楽しそうに]と添えています。

 

弟子たちは、本当は飛び上がるほど嬉しいのです。でも、どうしても目の前に居る人が主だと信じられません。

 

するとイエスさまは「此処(こゴ)に何が食う物(ものァ)あっか?」と[ニコニコ]しながら言われたと書かれています。直後に、一切れの残り物の焼き魚が差し出されると、イエスさまが「ムシャムシャとお食べなさった」と訳されているのも見事です。

 

食べるという営みは、人を日常の世界にグイッと引き込む力があります。実にさり気なく、弟子たちを思(おも)ん量(ぱか)られた主の愛が浮かび上がるのです。

 

こうして、弟子たちの緊張を解きほぐされた上で、イエスさまは、聖書全体がご自身を指し示すものであることを丁寧(ていねい)に解き明かされました。弟子たちの心にみ言葉がストンと落ちます。

 

「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれた」とありますが、聖書の原文を調べると、この時の弟子たちの心は、ただ燃えていたのではないことがわかります。理知的・理性的にみ言葉を聴く心が与えられました。自分自身の罪をも客観的に認める心を与えられたのです。

 

私たちの福音宣教の旅もここから始まります。end

 

 


2019年3月24日(日)夕方 十文字平和教会の庭にて モクレン開花が近いです
2019年3月24日(日)夕方 十文字平和教会の庭にて モクレン開花が近いです

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/03/24
      ルカによる福音書 20章9節~19節より
      「 ぶどう園から生まれるもの 」
             森 言一郎 牧師

 

ゴルゴタの丘での受難を目前にして「ぶどう園の譬え話」が語られます。

 

登場人物たちを確認しておきます。長い旅に出る「主人」とは〈神さま〉のことです。主人は収穫の度ごとに「僕(しもべ)」を送ります。彼らは旧約聖書に登場する〈預言者〉たちです。

 

預言者とは、人々に何と思われようとも、神の言葉をそのままに取り次ぐ使命に生きる人たちでした。

 

月本昭男先生という旧約聖書の専門家が最近の『NHKラジオ講座』の中で預言者について「預言者とは社会・政治・宗教の各面から時代批判をすると同時に、将来への希望を語る存在である」とお話になりました。旧約時代の預言者たちは、王に、社会の人々に憎まれました。イエスさまはご自身について「預言者は故郷では敬われない・・・」と語っておられます。

 

ぶどう園を任された「農夫」は〈神の民イスラエルの人々〉のことですが、彼らは3人の「僕(しもべ)たち」を袋だたきにし、侮辱し傷を負わせ、主人が意を決して跡取り息子を送り込むと、むごい仕方で殺してしまい、まるで石ころのように放り出すのです。

 

この跡取り息子こそが主イエスでした。

 

世の罪が明らかにされる譬え話です。神の国は見出せないのでしょうか。

 

いいえ、ここには確かな希望が語られています。「家を捨てた者の石が、隅の親石となる」という詩編118篇のみ言葉が、イエスさまの復活によって成就するという預言だからです。

 

何の役にも立ちそうにない石ころが、隅の親石となり、私たちの教会までも支えてくれています。

 

さらに感謝なことに、石ころに過ぎない私たちが、神の国の伸展のために用いられているのです。レントの時、十字架を見上げ、希望の光を見出しましょう。end

 


2019年3月17日(日)受難節・レント第2主日 十文字平和教会の講壇献花 君江さんのご奉仕に深謝
2019年3月17日(日)受難節・レント第2主日 十文字平和教会の講壇献花 君江さんのご奉仕に深謝

    ◇先週の説教より◇  ☆2019/03/17
        ルカによる福音書 4章1節~13節より
        「 荒れ野のイエスゆえに 」
             森 言一郎 牧師

 

十字架への道を歩み始められるイエスさまは、荒れ野での40日間の極限状態の中、悪魔からの試みを受けます。いにしえの教会は、イースター前の6回の日曜日を除く荒れ野での40日に、イエスさまのこの世での苦しみを見いだしました。

 

しかし、それ以上に重要なことがあります。

 

そのヒントは、イエスさまがサタンに対して答えられた「人はパンだけで生きるものではない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」「あなたの神である主を試してはならない」という3つのお言葉のいずれもが『申命記』の〈み言葉〉である点です。

 

そもそも、『申命記』とは何であるのか。

 

何よりも、出エジプト記、レビ記、民数記に続く『申命記』は、エジプトでの奴隷状態からの解放となる40年間の旅路が終わろうとしている時に神の教えがモーセに託されている書であることを心に留めましょう。

 

約束の地に於いて大切にすべきことを、神さまが深い愛をもって示されたことをイエスさまは承知しておられました。この3つの〈み言葉〉は、そのいずれもが、今を生きる我々にもピタリと当てはまります。私たちを支えるのは一貫して神の言葉だからです。

 

イエスさまはいつもそばに居たペトロに対して「サタン、引き下がれ」と戒められました。また、サタンが入ったイスカリオテのユダに裏切られたことからも、私たちは眼をそらしてはなりません。

 

私たちと彼らには少しの違いもないのです。

 

イエスさまが十字架の上で聴かれた群衆の叫びはサタンの声と重なります。しかしイエスは、キリストであるがゆえに、そこから降りたりはなさいません。

 

レントに入りました。今年も主イエス・キリストの受難、そして復活の意味を深く心に刻む期節を迎えています。end


3月3日(日) 教会庭の木瓜(ぼけ)のつぼみたち
3月3日(日) 教会庭の木瓜(ぼけ)のつぼみたち

◇先週の説教より◇  ☆2019/03/03
            創世記 41章37節~42章5節より
            「 神は悩みの地で 」
             森 言一郎 牧師

 

エジプト王ファラオの元で総理大臣に抜擢されたヨセフを支えていたのは「神」でした。ヨセフはその事実を自覚しています。ヨセフという人に、ファラオにこびたりする態度が微塵もない理由はそこにあります。

 

ヨセフが立案し実行する見事な穀物備蓄政策は、激しい飢饉に見舞われた周囲の諸国でも評判となります。その噂をカナンの地で聞きつけた父ヤコブは、エジプトの総理を務めているのがヨセフだとは露知らぬまま、息子たちをエジプトに送るのです。

 

このような一族の再会の準備を計画されたのも神さまでした。人の思いを遥かに超える〈神の摂理〉がここにはあります。

 

波瀾万丈の中を生きるヨセフという人の言動を注意深く観察するときに、素朴に教えられることがあります。その悩みに満ちた13年の間に、ヨセフは不平不満を口にはせず、今生かされている場所がどんなに辛くても、いつもベストを尽くす、一所懸命の人になっているのです。

 

苦難の中でヨセフは二人の息子に恵まれました。長男「マナセ」、次男「エフライム」です。いずれもエジプトでの苦労に関連ある名前でした。

 

実にヨセフは、息子たちの名に自身の信仰を秘めて告白しているのです。のちに、「マナセとエフライム」は、劇的な再会を遂げることになる父ヤコブから特別な祝福を受け、12部族の基(もとい)となりますが、これも偶然ではありません。

 

新年度に向けて、神に信頼する姿勢を整え、ヨセフに倣うべきことを倣って進んで行く道を求めましょう。きょうの礼拝後の役員会では、是非ともその具体的な案についてご一緒に検討を始めたいと考えています。各自が苦労していることを、安心して語らう場のある教会になりたいのです。end

 


2019年2月24日(日) 説教を語る森牧師 十文字平和教会の講壇にて
2019年2月24日(日) 説教を語る森牧師 十文字平和教会の講壇にて

     ◇先週の説教より◇  ☆2019/02/24
              使徒言行録 9章1節~22節より
     「 ダマスコでパウロが出会ったもの 」
             森 言一郎 牧師
             
サウロの名が最初に知られるのはキリスト教徒の最初の殉教者であるステファノの死の場面でした。ステファノは死の間際に執り成しの祈りを捧げます。その一部始終を見守っていたサウロは、クリスチャンの存在に恐れを抱きます。だからこそ、サウロは〈この道〉を生きるキリスト者たちを無き者とするために、迫害の急先鋒として息を弾ませていたのです。

 

それにしても、神さまのなさることは実に不思議です。この極悪人サウロこそ、のちのパウロだからです。パウロの記した手紙は新約聖書の中で一番たくさん収められることになり、異邦人伝道の使命を生き抜く人なのです。

 

サウロは「ダマスコに入ればあなたがこれからなすべきことが示される」という主の呼び掛けを聞きます。そして三日の間、見ることも食べることも出来ないほどに苦しみながら、幻で見たアナニアの到着を待ちました。

 

そのアナニアが手を置いて祈ってくれた時、聖霊に満たされたサウロは、幼い頃から大切にしてきた価値観の大転換となる【目から鱗(うろこ)が落ちる】経験をし、洗礼を受けるのです。英語の聖書では「鱗」は「スケール」つまり「定規」という意味にも取れる言葉が使われます。

 

サウロにとって「律法という名の物差し」こそ絶対的な価値のあるものでした。しかし、この時サウロの目からその物差しがポロリと落ちたのです。これこそ、後(のち)のパウロを、イエス・キリストゆえの自由へと解放するための必然であり、悔い改めの始まりでした。

 

これは他人事(ひとごと)ではありません。今を生きる私たちにも繰り返し起こるべき大切な出来事だからです。end

 


2019年2月17日(日)午後3時前 十文字平和教会の裏庭で 空と梅と澄んだ空気と
2019年2月17日(日)午後3時前 十文字平和教会の裏庭で 空と梅と澄んだ空気と

      ◇先週の説教より◇

   『 フィリポ、宦官、そしてパウロへ 』
                               使徒言行録 8章26 ~40節より
                                      森 言一郎 牧師
                                                 
エチオピアからエルサレム神殿での礼拝に遥々やってきた宦官は満たされぬ思いで帰路についていました。

 

異邦人であることの疎外感、さらには、申命記23章2節の【睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。】という律法の言葉は彼を苦しめます。

 

宦官はエルサレムで起こったイエス・キリストの十字架を巡る出来事の深い意味をたどろうとして聖書を読み続けていました。しかし、一人ぼっちではどうしてもその意味を理解できなかったのです。そんな彼が、荒れ地を意味するガザを通りかかる時に遣わされたのがフィリポでした。

 

宦官はイザヤ書53章の「苦難の僕」の物語の前後を丁寧に手引きしてくれたフィリポを通して、もう少し先にある福音の解き明かし、その深い意味を知ることになります。

 

彼はイザヤ書56章3節、【主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。】のみ言葉に触れたはずです。預言者イザヤの預言が、イエスさまにおいて成就したことを知るのです。

 

もはや宦官は、何も迷うことはありません。フィリポから洗礼を受け、クリスチャンとなり、新しい人に変えられて行きます。

 

喜びに満たされ、軽やかに旅を続けるその姿は、幼子イエスと出会った東の国の博士たちと同じです。フィリポの働きを通じての異邦人である宦官への福音伝道は、このあとに登場するパウロによって、思いも寄らぬ形で引き継がれていきます。そこに、人知を越えた神のご計画があります。その働きゆえに、今の私たち十文字平和教会もあるのです。end

 


2019年1月27日(日) 枝で共に春を待つ繭 教会の庭にて
2019年1月27日(日) 枝で共に春を待つ繭 教会の庭にて

      ◇先週の説教より◇   

      ☆2019年1月27
    『  舟と網をあとにした人 』

                   森 言一郎 牧師

        ルカによる福音書 5章1節~11節より

 

岸辺で仲間たちと共に網を繕っていたペトロ。彼は、「沖に漕ぎ出してくれないか」とイエスさまから頼まれます。

 

さらに、舟の上での説教を終えられたイエスさまは、「深いところに出て、もう一度、網を投げよ」と、漁師たちが耳を疑うような言葉を口にされたのです。ペトロはそのお言葉に従いました。

 

岸辺の群衆に向けて語られるイエスさまの直ぐそばで、聖書の説きあかしを聴き続けていたペトロは、力強く恵みに満ちた主の恵み深いお言葉に感動を覚えていたことでしょう。だからこそ、「夜通し苦労し、何も獲れませんでしたが、お言葉ですから」と言って網を降ろしたと思うのです。

 

結果はどうだったでしょう。ガリラヤ育ちの漁師たちが腰を抜かして驚愕(きょうがく)する程の魚が網に掛かります。ペトロはイエスさまの前にひれ伏して言いました。「私みたいな者から離れてください。私は罪深い人間で、とてもおそばには寄れません」と。

 

この姿勢とこの言葉は、ペトロの〈悔い改め〉をあらわしています。ペトロは確かに網を投げました。しかしペトロは、心底からイエスさまのお言葉に信頼してはいなかった。そのことを素直に認め、罪の告白が出来たのがペトロでした。

 

私たちは憎めないところの多いペトロに対する親近感を抱くことが多いものです。けれども、我々がどうしても心に刻まなければならないペトロがここに居ます。このような〈悔い改め〉が出来たペトロだからこそ、舟と網を投げ出し、新しい使命に生きる人として主に用いられていったのです。

 

イエスさまは、きょう、「あなたも」と招いてくださっています。end

 

 


2019年1月の日曜日 十文字平和教会の講壇にて 森牧師
2019年1月の日曜日 十文字平和教会の講壇にて 森牧師

      ◇先週の説教より◇   

      ☆2019年1月20
  『  十三年目の正直を生きた人 ヨセフ 』

                   森 言一郎 牧師

               創世記 41章1節~40節より

 

獄中で苦悩するヨセフが居りました。一度は光が見えたかに感じた宮廷の給仕役への懇願から既に2年。兄たちに見捨てられ命を落としそうになってから、はや13年です。

 

ヨセフは、彼が期待し思い描いていたのとは全く違う形でエジプト王ファラオの前に立つ事になります。

 

しかし、結果的には、彼の計画通りに事が運ばず、不吉な夢を見たファラオの夢解きの機会が与えられたからこそ、エジプトの総理に任命されるのです。自分を見捨て裏切った家族との再会の道が開ける事をやがて知るのです。創世記の主人公は神さまであることが41章を丹念に読むとわかります。

 

絶大な権力により、世のあらゆるものを持っていたかに見えたファラオが、何も持たない、裸同然のヨセフに助けを求めました。ヨセフは何も持たない者でありながら、必要なものの全てを持っている人でした。

 

彼は自分の思い通りにならない事を受入れながら、神がなさろうとしている事を待ち続けたのです。未来を信じる者を神は見捨てません。

 

私たちの人生にも、ヨセフと同様の13年が形を変えて襲って来る事がありますが、見えざる神のみ手に生かされている事を信じ、急ぎつつ待つ人になりましょう。そこにこそ、我々が倣うべき信仰の知恵があるからです。

 

私たちも、人生の途上で回り道を強いられる事があります。しかし、自分の計画通りに進まない事すらも、神のご計画のうちにある事がここで明らかにされています。

 

カナダ合同教会の信仰告白の冒頭と最後にある「私たちは一人ではありません・We are not alone(ういあー のっと あろーん)」を心に刻みましょう。end

 


2019年1月6日 公現日 十文字平和教会の講壇にて 森牧師
2019年1月6日 公現日 十文字平和教会の講壇にて 森牧師

      ◇先週の説教より◇   

      ☆2019年1月6日 公現日
      『  別の道を帰った博士たち 』

                森 言一郎 牧師

          マタイによる福音書  2章1節~12節より

 

新約聖書の一番最初に置かれるマタイによる福音書。1章から2章にかけて、特に心に留めておきたいことがあります。

 

それは、第一の読者として、どのような人たちを想定していたのかという点です。福音書記者マタイは、「旧約聖書」(当時は「新約聖書」はまだありません)に精通している〈ユダヤ人〉が身を乗り出して読み始めるような切り口で語り始めています。

 

まず、冒頭に記されるのは当時としては異例の、影のある女性たちの名が含まれる〈イエス・キリストの系図〉でした。

 

続く〈ヨセフへの受胎告知〉も、律法に忠実な真面目人間ヨセフが、いいなずけのマリアの思いも寄らぬ妊娠にもかかわらず、妻として受け入れるところにも現れています。ヨセフは、律法破りの人と呼ばれる覚悟をもった人としてその存在が記録されているのです。

 

ヘロデの前に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこに・・・」と言って訪ねて来た博士たちは、ユダヤで忌み嫌われる東の方角からの人たちであり、罪人と見なされる異邦人でした。

 

しかし、神さまは宝を献げ、幼子イエスを礼拝する役割のために東方の博士たちを選ばれたのです。考えてみると、我々は博士たちよりも、さらに東方に生きる者なのです。

 

博士たちが幼子イエスから受け取ったもの。それは〈インマヌエル=神われらと共に〉という恵みでした。幼子は何も語りませんし、何もくれません。

 

しかし博士たちは、喜びを胸いっぱいに、夢のお告げのとおり、新しい道を進み出したのです。その後姿には、私たちの希望が見えます。これは、2019年の最初の日曜日に示された十文字平和教会への福音です。end

 


2018年12月23日・クリスマス礼拝、クリスマス愛餐会の後、満さんが2018年さいごの礼拝案内版のご奉仕をされているところ。礼拝堂にて。
2018年12月23日・クリスマス礼拝、クリスマス愛餐会の後、満さんが2018年さいごの礼拝案内版のご奉仕をされているところ。礼拝堂にて。

      ◇先週の説教より◇   

      ☆2018年12月23
      『  クリスマス 救いの喜びを新たに 』

                森 言一郎 牧師

             ルカによる福音書  1章26節~38節より

 

救いのみ子イエス・キリストは、旧約聖書に一度も名前が出て来ない〈寒村ナザレ〉に暮らす〈無名の娘マリア〉の胎に宿ります。それが神の選びでした。

 

ドイツの無名の彫刻家たちはイエスの母マリアを、農家の娘を想わせる体格のしっかりとした、たくましい腕の、素朴で健やかな娘として表現します。マリアは私たちと同じ地平に生きる〈普通の人〉なのです。

 

のちにマリアは、親戚筋にあたるエリサベト叔母さんを訪ねた時に、マニフィカ-トと呼ばれる賛歌の中で「身分の低い、この主のはしためにも」と歌い始めます。別の表現では「取るに足らない」「数に入らない」となります。

 

実は、そのエリサベトの存在こそが、マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」という告白の切っ掛けになったことを心に留めましょう。年老いたエリサベトが洗礼者ヨハネの母となることも聖霊による出来事であり、二人は共鳴し合う思いを抱く中で神さまのご計画に参与する者になったからです。

 

「キリスト者はイエス・キリストのゆえに他のキリスト者を必要とする」という言葉があります。正にそれに通じることが二人の上にも起こりました。

 

クリスマスは、神さまの選びが人の思いを遥かに超えたものであることを思い起こす時です。なぜなら、その選びは、我が身に起こり、私たち十文字平和教会の出来事として起こることだからです。

 

私たちはクリスマス礼拝の今日、み使いを通じて「恐れるな 小さな群れよ」のみ言葉を新たに聴いています。感謝を捧げましょう。end

 


2018年10月21日 礼拝後、10月のお誕生日会を行いました。手前・正子さん、窓辺・房子さん おめでとうございます! 
2018年10月21日 礼拝後、10月のお誕生日会を行いました。手前・正子さん、窓辺・房子さん おめでとうございます! 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年10月21
     「 ヨセフ その強さの秘密 」

                 森 言一郎 牧師

      創世記 39章1節~23節より

 

兄たちによってエジプトに向かう隊商に売り飛ばされたヨセフ。辿り着いた地エジプトでは、侍従長ポティファルの奴隷となりました。

 

しかしヨセフは〈この男は出来る奴だ!〉と主人に見込まれ、不思議な程にその家で重用されていくのです。

 

ヨセフを支える力について創世記39章は「主が共に居られたから」だと繰り返します。ヨセフが主人のポティファルからあり得ないほどに認められたのも、主人の妻からの誘惑を断固として退けたのも、監獄に投げ込まれた時に諦めずに頑張ることが出来たのも、「主が共に居られたから」だというのです。

 

二十歳過ぎたばかりのヨセフには、神さまを信じ、頼みとする信仰があったのでしょうか。

 

聖書は何も語りませんが、私はヨセフは信仰を父ヤコブからいつしか受け継いでいたのだと確信します。

 

私ごとで恐縮ですが、私は父が晩酌をしながら時に語ってくれた、「父さんはなぁ、弱いんだ。(だが)神導き賜う」という言葉を忘れることが出来ません。それが父の信仰告白だったと思っています。

 

ヤコブは溺愛したヨセフに、ただ、きらびやかな衣を身にまとわせただけでなく、生涯でもっとも恐れに満ちていた時に示された主の言葉を口伝えしていたはずです。

 

創世記28章15節に「見よ、私はあなたと共にいる。・・・私はあなたを決して見捨てない。」とあります。

 

この約束は主イエスに於いて示される「インマヌエル 神われらと共に」とピタリと重なるのです。ヨセフが身にまとっていた素朴に信ずる信仰への招きを、私たちは今ここで受けているのです。end

 

 


2018年8月26日(日)の十文字平和教会の講壇。講壇の並びがあれこれ変わりました。君江さんが「インスタ映えしますねぇ」とおっしゃいました。なるほど、アーメンです。
2018年8月26日(日)の十文字平和教会の講壇。講壇の並びがあれこれ変わりました。君江さんが「インスタ映えしますねぇ」とおっしゃいました。なるほど、アーメンです。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月26
       「 ぶどう園の息子の物語 」

                   森 言一郎 牧師

        マルコによる福音書 12章1節~12節より

 

これは譬え話です。

 

まず「ぶどう園」は聖書の舞台となっている「イスラエルの社会、そこに生きる民全体」のことであることを知りましょう。

 

そこで暮らしている「農夫たち」は遠くに暮らす「主人」すなわち「神さま」から一切を任せられている「小作人」で、元来は真面目な人たちでした。

 

ところが、いつしか農夫たちは、遠くに暮らす主人が収穫期になると送り込んでくる「僕(しもべ)」殺しを始めます。

 

ここでの「僕」とは旧約の時代に次々と登場した「預言者」のことです。農夫たちが遣わされた「僕たち」=「預言者」をないがしろにするということは、イスラエルの民がみ言葉に聴かず、〈神殺しをしていた〉ことを意味しているのです。

 

最後に、農夫たちの元に送られて来たのは主人の「最愛の子」でした。

 

ところが、小作人たちは〈そーら、待ってました〉とばかりに、主人の「愛し子」を殺します。この愛し子こそ、世の辱めを受け、十字架の上で殺されるイエスさまだったのです。ここには神を必要としながら、神なしで生きようとする人間の罪と闇が浮き彫りにされます。

 

果たしてこの譬えの中に救いはあるのでしょうか。

 

あるのです。間違いなく救いはあるのです。それは十字架の上で殺され、石ころのように捨てられた主キリストが隅の親石として用いられるという預言にあります。復活の予告でした。思い巡らすならば私たちも石ころであり、復活の命に生かされています。

 

闇の向こうには、ほのかな光が確かに見えているのです。end

 

 


2018年8月19日(日)の十文字平和教会の献花です。美しいですね、本当に。ご奉仕の君江さんにも感謝。
2018年8月19日(日)の十文字平和教会の献花です。美しいですね、本当に。ご奉仕の君江さんにも感謝。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月19
       「 遠くに立って祈った人 」

                   森 言一郎 牧師

            ルカによる福音書 18章9節~14節より

 

「徴税人」はユダヤの社会で〈うとんじられている〉人でした。少し先のルカによる福音書19章に登場する〈徴税人の頭・ザアカイ〉はその代表格です。イエスさまを迎える群衆の列にザアカイは入れてもらえず、いちじく桑の木に登りました。

 

彼ら徴税人は異邦人であるローマ皇帝の手先として定めを超えた税金を取り立て、私腹を肥やしていたからです。汚れを身に帯びている罪人の烙印を押されていました。

 

ルカ福音書18章のここでの譬え話の中で、イエスさまは律法に忠実な「ファリサイ派」の人と正反対の人として「徴税人」を引き合いに出されます。

 

彼は神殿で遠くに立って胸に手を置き、短く「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈ります。この場面を読むとき、注意が必要です。イエスさまはここでの〈徴税人のお祈り〉を真似なさい、と言われたのではありません。同時に〈神殿の遠くに立つこと〉を求められたわけでもないのです。

 

この場面を我々の教会生活に置き換えて考えてみましょう。すると、日曜毎の礼拝においてただ一つのことが求められていることに気付きます。

 

それは、自分という人間が、自らの努力や修錬=善行によってでは解決できない罪を抱えている存在であることを素直に認める人でありなさい、ということです。信仰生活の要である礼拝とは実にそのような場なのです。

 

罪人としての自覚をしっかりと抱いてみ前に身を置くのがクリスチャンの基本です。私たちはその幸いな招きを今日も頂いています。感謝です。end

 


2018年8月5日(日)礼拝後のお茶の時間に登場した〈スイカのフルーツポンチ〉。世界一の美味しさと思います。黒色はブルーベリー。房子さんからのポンチです。 photo:miki 
2018年8月5日(日)礼拝後のお茶の時間に登場した〈スイカのフルーツポンチ〉。世界一の美味しさと思います。黒色はブルーベリー。房子さんからのポンチです。 photo:miki 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月5
       「 いつも見守っておられる神 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 37章1節~36節より

 

 ヨセフは族長ヤコブの11番目の息子です。ヨセフは父ヤコブの偏愛もあり兄たちに妬(ねた)まれました。彼は不思議な「夢解き」の力をもっていましたが、夢解きの仕方に相当ないやらしさがあったようです。

 

 ただし、彼の夢解きは自分の努力で得たものではなく、神さまからの賜物であることは心に刻みましょう。み心が働いているのです。

 

 創世記37章に登場する人々はヨセフを含めて例外なく罪人であることを聖書は告げています。家庭内のいざこざは〈父ヤコブ〉の偏愛がそもそもの原因です。34章では〈次男シメオン〉と〈三男レビ〉は妹ディナにゆるしがたい乱暴を働いたシケムの人々を皆殺しにします。〈長兄ルベン〉は35章22節にあるように父の側女を我が物とします。ヨセフを金で売ろうと言い出した〈四男ユダ〉も次の38章で愚かしい行動を取り、マタイ福音書1章のイエスの系図に名を残すのです。

 

  「ヨセフ物語」の中に神さまの壮大で緻密(ちみつ)なご計画が垣間見えます。全てが見えない形で織りなされヨセフ物語は展開して行きます。井戸に放り込まれて死にかかったヨセフがエジプトに向かう隊商に奴隷として買われ、やがて、エジプトの宰相になるのは偶然ではありません。

 

 神さまは創世記37章に登場する人々と同じ罪人である私たちを、イエス・キリストに出会わせて下さる準備を既に始めておられたのです。end

 


2018年7月29日(日)礼拝後のお茶の時間 ブラックベリーが届いていました。プチプチとしたこの食感は他では味わえません。 photo:もりげん 
2018年7月29日(日)礼拝後のお茶の時間 ブラックベリーが届いていました。プチプチとしたこの食感は他では味わえません。 photo:もりげん 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月29
       「 その水をください 」
                森 言一郎 牧師
       ヨハネによる福音書 4章1節~26節より

 

〈サマリアの女〉と呼ばれる無名の女性は、井戸辺で水を求めて居られたイエスさまと出会い「水を飲ませてください」と頼まれました。
 
 ところがこの場面、いつの間にか話が逆転します。

 

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない…」というイエスさまのお言葉に触れた女性は「主よ、渇くことがないよう…その水をください」と叫ぶのです。
 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」という主のお言葉から、この女性が簡単には説明できない、複雑な苦悩を抱えながら生きてきた人であることは明らかです。

 

 私たちも、親にも、人にも、先生にも相談できない何かを抱えながら生きています。ここに登場するサマリアの女とは、渇き切っている何かを抱えている私たち自身を指し示してくれる象徴的な存在なのです。
 
 私たちの捧げるこの礼拝で、自分自身の「渇き」を認め、十字架の主を見上げ「その水をください」と叫ぶところから、私たちの「まことの礼拝」は始まります。
 
 やがて、イエスさまは全てを完成される十字架の上で「渇く」(ヨハネ19:28)と叫ばれます。

 

 この「渇き」こそ、私たちの救いのために命の水を注ぎだしてくださるための「渇き」です。永遠の命に至る水は十字架の主から頂くのです。end

 

 


2018年7月22日(日)礼拝報告時、この度の豪雨被害で生活が一変した正子さんから万感の思いを込めてご挨拶。photo:もりげん 
2018年7月22日(日)礼拝報告時、この度の豪雨被害で生活が一変した正子さんから万感の思いを込めてご挨拶。photo:もりげん 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月22
   「 人知を越えて エサウとの和解 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 33章1節~20節より

 

福音というもの。

 

それは聖書全体を通じて言えることですが、当たり前のことが当たり前に起こることとして示されてはいません。

 

その典型がイエスによる譬え話です。ルカ15章の放蕩息子の話、マタイ20章のぶどう園の労働者の話は、当事者としてそこに身を置いていたら「それはないよ」と言いたくなる内容であることに気付きます。

 

               **************

 

創世記33章に描かれるヤコブと兄エサウの和解の場面も出来すぎた話なのです。「ヤコブの奴、絶対にゆるさん。殺してやる」と呻き声を上げたエサウのはずです。

 

しかしエサウは穏やかに弟を迎えます。しっかりと胸に抱き口づけする。ヤコブがあらゆる知恵を用いて立てた兄への執りなしの計画は一切必要なかったのです。

 

               **************

 

ここには、ことの成り行きを離れた所から静かに見守っている方が居られました。この場面を企画・立案された神さまです。このお方がプロデューサーとして働いているからこそ、人知を遙かに超えた、広く、長く、深い愛の物語が、イエス・キリストの十字架に至るまで繋がって行くのです。

 

新しい道を歩き出したヤコブは「そこに祭壇を建て」ます。

 

「祭壇」とは〈礼拝〉と〈祈り〉の場です。人生に於いて、神さまとがっぷり四つになる場所が生きている限り必要だと知った人ヤコブのなすべき必然なのです。

 

私たちも続いてまいりましょう。end

 

 


2018年7月15日(日)淡いピンクの立葵 37℃ photo:はる 
2018年7月15日(日)淡いピンクの立葵 37℃ photo:はる 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月15日
        「 ヤコブがとった角力 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 32章2節~33節より

 

故郷に向かうヤコブ。

 

彼は20年前、兄エサウをあざむき、逃げ出した罪の重さを自覚していました。

 

ヤコブは神の恵みを受けるに足らない者であることを祈りの中で認め「恐ろしいのです」と告白します。

 

ヤコブは知恵を用い、エサウへの出来る限りの贈り物を準備し、遣いの者に託しました。その後、家族を先にしてヤボク川を渡らせますが、それでも彼は兄エサウが恐くて渡れないのです。

 

              **************

 

独りあとに残ったヤコブ。

 

彼は〈ある人〉と夜を徹して人生最大の角力を取ります。相手は彼の股関節を外し、生涯足を引きずるようにします。また、名をイスラエルに変えるよう命じました。ヤコブは「顔を見た者は死ぬ」と知っていた神との格闘だと気付きましたが死にませんでした。

 

              **************

 

この場面、私はイエスさまの前に独りあとに残った女性を思い起こします。ヨハネ福音書8章の「姦淫の女」と呼ばれる人です。深く罪を自覚する彼女にとって、イエスさまと真っ正面から向き合うどうしても必要な場面でした。

 

独りあとに残ったヤコブは、実は、イエスさまと死力を尽くしての角力をとったのだと私は読みます。魂を注ぎ出す祈りでもありました。相手が(受肉前の)イエスだったから彼は死にませんでした。

 

ヤコブは新しい人として歩き出します。ここに、私たちの救いの道も見えて来るのです。end

 

 


2018年6月24日(日)の礼拝後 よかったらもって帰って下さいと準備されていたタケノコです。細いのは成長が悪いのではありません。こういう時のが一番美味しいんですよ(^^♪
2018年6月24日(日)の礼拝後 よかったらもって帰って下さいと準備されていたタケノコです。細いのは成長が悪いのではありません。こういう時のが一番美味しいんですよ(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/24
   「 ヤコブ 彼はつわものか 」

       森 言一郎 牧師
       創世記 29章1節~30節より

 

坊ちゃん育ちのヤコブ。

 

彼は伯父ラバンの元で、人生初の試練の中に置かれます。けれども、とにかく頑張るのです。

 

ひと目惚れしたラケルとの結婚生活に夢を抱き、がむしゃらに働き続けることで、兄と父を欺いてしまった苦い過去を少しでも忘れたかったのかも知れません。

 

約束の7年が経ちます。ラケルとの婚宴の日の翌朝、夫婦として朝を迎えたと思っていた女性は何と姉のレアでした。

 

しかしこれは、兄エサウになりきって父イサクを欺いた時のしっぺ返しのような事態でもありました。ここからヤコブは、さらに7年、身を粉にして働き続けるのです。何という忍耐が求められたことでしょう。

 

ヤコブには人並み以上の根性と忍耐力が備わり、彼は〈つわもの〉として成長していたから、ここでの苦難を乗り越えられたのでしょうか。敢えて申します。否なのです。

 

ヤコブは弱い人間ですし、どう見ても罪人です。

 

しかし、そんな彼を支えていたのは彼を選び取られた神さまでした。ベテルの地で〈決して見捨てない〉と約束されたお方は、最後まで責任をとるお方でもあります。

 

その憐れみに生かされているのはヤコブだけでなく、今ここで信仰の旅路を生きる私たちでもあるのです。end

 

 


2018年6月3日(日)の礼拝にて 秋山君江さんのいつものご奉仕です 献花にはその方の信仰や生き方が不思議にあらわれます 美しいです(^^♪
2018年6月3日(日)の礼拝にて 秋山君江さんのいつものご奉仕です 献花にはその方の信仰や生き方が不思議にあらわれます 美しいです(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/3
      「 無学で普通の人が必要です 」
                 森 言一郎 牧師
        使徒言行録 4章1節~22節

 

 生まれてから40年、歩くことも出来なかった人を立ち上がらせたペトロとヨハネ。

 

 二人は神殿で捕らえられ牢獄に入れられます。でも、その後もひるむことなく確信をもって語り続けました。

 

 彼らを見て恐れを抱き始めたのは当時の権力者です。二人が伝えていた内容は十字架と復活のイエス・キリストの名による力でした。

 

 キリストの名による力とは、イエスの実在を深く信じて生きることです。ペトロとヨハネは、目に見えない主イエス・キリストを基とする生き方を始めていました。

 

 二人がイエスさまに召し出された時のことがマルコ福音書1章16節以下にあります。イエスさまはガリラヤ中を探し回って、聖書に精通した人を求めて弟子としたわけではありません。二人はガリラヤ湖の漁師です。

 

 弟子となるのに学問は必要ないのです。求められているのは学力でも知力でもありません。権力者たちは〈あいつらは無学で普通の人ではないか〉と驚きました。

 

 キリスト者として信仰生活を続けるときに、私たちは揺れ動くことがあります。

 

 しかし、イエスのみ名に信頼し、土台をそこに置いて生きる人は、激しい嵐が襲って来ようとも流されてしまうことはありません。何と幸いなことでしょう。end 

 

 


2018年5月27日(日)の礼拝にて 満さん、ご自身による祈りの前にバークレー先生の『はじめての祈り』も紹介して下さいます(^^♪ 
2018年5月27日(日)の礼拝にて 満さん、ご自身による祈りの前にバークレー先生の『はじめての祈り』も紹介して下さいます(^^♪ 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/27
      「 逃げ出した人ヤコブ 」
                 森 言一郎 牧師
      創世記 28章1節~22節

 

 聖書にはモーセやペトロをはじめ多くの逃亡者が登場します。

 

 しかし、他の誰かではなく、私たちこそが逃げ出した過去を持つ人間であることを思い起こすことは、この場面を読む時に大切です。

 

 讃美歌21-185『旅に疲れて』を開いて見ましょう。創世記28章のヤコブを思い浮かべる助けになります。

 

 1節に「旅に疲れて眠るヤコブ 石の枕、土の上。ヤコブは見た 不思議な夢、天にかかる梯子の夢を」とあります。

 

 ヤコブは夢の中で、天国からの梯子を上り下りするみ使いの姿を見ます。と、その時、主が姿を顕され、4つの約束を告げます。

 

 それは、①神が共に居ること。②どんなところでも守る。③この地に連れ帰る。④決して見捨てない、でした。

 

 これは我々への約束でもあります。

 

 先程の讃美歌185番の歌詞の欄外には、ヨハネ福音書1章51節が指示されています。イエスさまのお言葉は、ご自身の十字架が全ての罪人のための天と地を結ぶ〈梯子〉となる、という預言となっているのです。

 

 逃亡者ヤコブが石を枕にして横たわったのは最も弱い時のことでした。そのような状態で主の元に身を置き、約束の言葉を聴くこと。それこそが逃亡者である私たちの新たな始まりなのです。end

 

 


2018年5月6日(日) 
2018年5月6日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/6

「 赤裸々な姿に学ぶ 鏡としての聖書」

               

                  森 言一郎 牧師

                

               創世記 27章1~29節
  
 

 族長イサク。彼は100歳を過ぎて命に限りを覚える日々を過ごしていました。

 

彼は妻リベカを通して「弟が兄に仕えることになる」という啓示を知っていたのです。

 

しかし、それを無視し、長男のエサウを死ぬ前に祝福しようとします。

 

妻リベカは双子の弟息子ヤコブを溺愛。夫でありヤコブの父であるイサクを騙す

テクニックを吹き込みます。神の祝福の略奪を促しました。

 

双子の兄エサウの軽率な言動は目に余ります。 とても、長男として、次の世代の族長としての祝福を受けるに相応しい人には見えません。

 

弟ヤコブはどうか。彼の行動には神への問いかけは全くありません。母の言いなりでした。

 

新約に目を転じますとマタイ福音書の冒頭にはイエス・キリストの系図があります。

見方を変えるとそれは罪人たちの系譜です。アブラハム・イサク・ヤコブの名もあります。

 

パウロも言いました。【義人はいない、一人もいない】(ローマ書3:10)と。

 

 創世記27章に登場する人々は、誰をみても罪人であることは明らかです。しかし、ヤコブも、エサウも、リベカも、イサクも神の民の誕生のために〈欠かせない罪人〉なのです。

 

彼らこそ救い主に繋がる大切な存在です。そこに私たちの救いの道が見えています。end 


2018年4月29日(日) 
2018年4月29日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/4/29
     「 もう一度 漁に出よう」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 21章1~14節
  
 

 【わたしは漁に行く】。そう声をあげたのはペトロです。主から託された宣教に恐れをなした7人は舟を出します。

 

この場面、もはや弟子たちが伝道を投げ出してしまったのでは、と読める場面です。

 

夜明け頃、岸辺から声が聞こえました。「おかずになりそうな魚はあるかい」と呼びかけたのはイエスさまでした。しかし弟子たちは気付きません。

 

ペトロは「あるもんかい、見りゃ分かるだろう」と投げやりの返事をします。すると、イエスさまは舟の右側に網を投げるよう命じられます。 その通りにすると、網が破れそうになる程の大漁となるのです。

 

この時、弟子の一人が【主だ】と気付き叫びます。裸同然であったペトロは、上着をまとって湖に飛び込みます。罪の身の恥ずかしさを隠さずには居れませんでした。

 

陸(おか)でイエスさまがパンを裂いて分け与えて下さる場面は、初代教会の礼拝の姿を示しています。彼らは懺悔の思いを抱きながら、主が準備された朝食を囲みます。

 

ゆるしの主イエスが真ん中に居られ、弟子たちに向かって、もう一度「人間をとる漁に出なさい」と促される声が聞こえるかのようです。この声は私たちの教会への呼び掛けに他なりません。  end

 


2018年2月18日(日) 
2018年2月18日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/18

 

 「井戸を掘り続けた人 イサク」

               

                     森 言一郎 牧師 

              

                  創世記 26章1~35節
  
 

 

 イサク。 彼は父アブラハムや息子たちのエサウとヤコブと比べてみると常に脇役です。創世記26章ではイサクにスポットライトが当たりますが、大きな盛り上がりが見られる話はありません。

 

飢饉の話、妻を妹と偽る話、神さまの祝福の約束、種を蒔くと100倍の祝福を受けた話、ペリシテ人に意地悪されても挫けることなく井戸を掘り続ける様子、ペリシテ人との和解の話が続きます。

 

 私は結婚式の司式をする際に、星野富弘さんの作品・『日日草』を新郎新婦への祝福の思いを込めて紹介することがあります。

 

                                              *

 

今日もまた一つ 悲しいことがあった 今日もまた一つ うれしいことがあった

笑ったり泣いたり 望んだり あきらめたり にくんだり あいしたり・・・・・そして

これら一つ一つを柔らかく包んでくれた数え切れないほど沢山の平凡なことが

あった

                                              *

 

 ここにはその時その時のイサクの精一杯が記されています。

 

彼は失敗もします。神さまの声も聞きます。笑顔も見えます。戸惑いの表情があります。しかし、ドラマティックではありません。

 

 人生、晴れ舞台の日は少なく、多くは平凡な毎日です。でも、イサクはいつも誠実に真面目に生きました。神の国にはイサクのような人がどうしても必要なのです。  end

 

 


2018年2月4日(日) 
2018年2月4日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/4
       「 主の招く声が聞こえる」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  マルコによる福音書 1章9~20節
  
 

 

 イエスの宣教の第一声を思い巡らしてみましょう。

ヨルダン川で洗礼を受けたイエスは、罪人と同じ地平に立ち、サタンの誘惑に満ちたこの世に身を置かれます。

 

 

 その直後に【悔い改めて福音を信じなさい】と語り始めたのです

 

30年ほど前に神学校で学び始めた頃、「低みに立ち、方向転換をする」ことの大切さを思うようになりました。

 

しかし最近、さらに深い意味合いが【悔い改め】にはあることを芥川賞作家でカトリックの信者である重兼芳子さんのある本を読んだ時に気付きました。

 

重兼さん。こういう意味のことを記されているのです。

 

「自分は神の前に壊れた存在であることを認めることが悔い改めです。反省する、後悔するとか、倫理道徳とは関係ない。み前で私は全く不完全ですと告白することです」と。

 

 イエスは神の国の福音を宣べ伝えようとされた時、当時の神学校に人材を探しに行かれたのではありません。

 

ガリラヤ湖畔でいつも通りに網を繕っていた漁師たちを招かれたのです。

彼らは向きを変えて立ち上がりました。

 

【わたしに従いなさい】という声が聞こえます。

 

【悔い改めて福音を信じる】ことは、イエスに従って生きて行くことそのものなの

です。end

 


2017年12月24日(日)
2017年12月24日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/24
       「 隙間のあるクリスマスへ」

                       森 言一郎 牧師

                   ルカによる福音書 2章1節~21節
  
 

 皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令でにぎわっていたベツレヘムの町にヨセフとマリアの姿がありました。

 

しかし、二人を受け止めてくれる親戚も宿屋もありません。

 

結局、寒風吹き抜ける隙間だらけの家畜小屋の飼い葉桶が、救いのみ子イエスが生まれ来る場所となるのです。

 

そこには、神さまのみ心が働いていました。

 

                       *

 

勅令の対象、数の内に入らなかったのが、荒れ野で星空と寒空のもと、羊たちの世話をしていた羊飼いたちでした。

 

み使いからの【今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける】の声を聴いた羊飼いたちは、飼い葉桶のみ子のもとに向かいます。

 

世界で最初のクリスマスでした。

 

もしも幼子イエスが、宿屋や神殿に生まれてきたとしたら足を踏み入れることは出来ません。

 

隙間だらけの家畜小屋だからこそ、何の恐れもなく、【さあ、ベツレヘムへ】と足を踏み出すことが出来たのです。

 

                       *

 

自分のことばかりが優先し、心の内がすし詰め状態の私たち。

 

キリストを迎え入れられるように、クリスマスの今日、隙間のある生き方を始めたいと願います。end